軽井沢の観光・旅行/軽井沢の基本情報

はじめての軽井沢

明治期より、避暑地として外国人や日本の文人墨客に愛されてきた軽井沢。日本の高原リゾートの先駆的存在である軽井沢とは、どのような場所なのか、歴史を紐解きながらご紹介します。

塩田 典子

執筆者:塩田 典子

一人旅ガイド

浅間山の南東斜面に広がる清涼な高原リゾート

浅間山
軽井沢のどこからも仰げる浅間山
軽井沢は長野県の東部、群馬県境に位置する、標高900~1000mにある高原リゾート。世界有数の活火山、浅間山の南東斜面に広がっており、そうした地形的な特徴から夏でも涼しく、明治期から避暑地として愛され続けてきました。

軽井沢の歴史の幕開けから現代まで

この辺りは、江戸時代には五街道のひとつ中山道の宿場町として栄えました。軽井沢(現在の旧軽井沢)、沓掛(現在の中軽井沢)、追分(現在の追分)の三宿は浅間根腰の三宿と呼ばれ、参勤交代の大名行列も通ったそうです。しかし江戸幕府の終焉に伴い、宿場町としての繁栄は徐々に衰退していきました。

ショーハウス記念礼拝堂
日本聖公会軽井沢ショーハウス記念礼拝堂
その後、軽井沢に新たな1ページをもたらしたのは、明治19年(1886)の夏。カナダ出身の宣教師A.C.ショーがこの地を訪れ、故郷の気候に似ていることに魅せられ、明治21年(1888)に別荘を建て、在日欧米人に軽井沢を紹介したことから、避暑地としての新たな歴史が幕を開けました。

外国人の受け入れが必要になったため、旅籠であった亀屋は明治27年(1894)西洋式ホテルに改築され、のちに「万平ホテル」と名前を変えました。時をほぼ同じくして、「三笠ホテル」も誕生。ホテルにとどまらず、外国人の来訪によって、パンやジャムといった西洋の食文化も軽井沢に根づくこととなります。

昭和に入ると堀辰雄、室生犀星などが執筆の場として別荘を建て、徐々に日本人避暑客が増えていきました。第二次世界大戦の敗戦後はホテルが進駐軍に接収されたもののその後営業が再開され、天皇陛下(当時の皇太子殿下)と皇后陛下(旧名正田美智子さん)の軽井沢のテニスコートでの出会いや、ジョン・レノン一家の滞在などにより、避暑地や別荘地として人気が高まりました。

平成に入り軽井沢のイメージを大きく変える契機になったのは、大型ショッピングモール「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」の登場、そして長野新幹線開通でしょう。それまで滞在型観光地のイメージが強かった軽井沢に、日帰り利用という選択肢が増えたのです。加えて電車アクセスが良くなったことから、軽井沢周辺を拠点に首都圏へ通勤する層も増えていきました。

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