「人格を見ない結婚」の恐ろしさ
「離婚に至る不一致」の原因を探ってゆくと、「私たちが、相手の人格を見抜くすべを持てなくなってきており、相手の人格を見抜けないまま結婚している」という、恐ろしい現実が見えてくる。
社会全体に蔓延する、結婚に対する甘いイメージは、結婚相手を選択する時の私たちの目を曇らせているだけでなく、「相手に自分の本当の姿を見せることの恐怖」をも、増幅させている。実際、結婚話を順調に進めたいばっかりに、相手に嫌われないよう、良いところだけを見せるように努めて「結婚してしまえば何とかなるだろう」などと、安易に考えている人も多いのではないだろうか。
「人生観」や「価値観」について意見を述べたがることをけむたがる、最近の風潮も考えものだ。「しっかりとした自分の考え」を持ち、主張できる若者が、逆に敬遠されてしまう不思議な国、日本。しかし、くらげのように流動的に「困った時には考える」というような生き方をしていたのでは、ふいに大きな選択を迫られた時、妻や夫を感心させるような働きができるわけもない。「だらしない人、頼りにならない人」というレッテルを、パートナーからシビアに貼られてしまうだけだ。
「不一致」の正体は、「合わせるのがイヤになった」
性格、価値観は異なっていた当り前だし、そのことに異議を唱える人も少なくないだろうが、その「違い」は、「補い合う」よりも「無責任に面白がる」ためにある、と言ったらどうだろうか。「面白がってなどいられない、私がフォローしなければ家庭が滅茶苦茶になってしまう」という声が聞こえてきそうだ。実際、日本の夫婦関係は、そのほとんどが「違いを補う」関係であり、加えて、「どちらかだけが補ってあげている」という関係である。
しかし過度の自己犠牲は、長続きしないものだ。本当に「補い合っている」夫婦なら、常に感謝の気持ちを持つことができるし、愛情が冷めることもない。にもかかわらず、たいていにおいて糟糖の妻は夫の「子守り」に疲れ果て、その結果、離婚を選ぶ。
「プラスとマイナスでなく、AとBになろう
明るい性格に暗い性格といった、プラスとマイナスの性格を持つ2人は、常にプラスがマイナスを補うだけの関係になりがちだ。それはいつしか、偏ったものになっていく。
もちろん、「与えっぱなし」の関係に見えたとしても、実はそうでない場合もある。親は子の成長そのものが喜びだし、芸術家のパトロンなどのように、「その人の仕事、存在が自分の糧」というケースもあるからだ。しかし夫婦の「片方だけが必死で補う関係」の場合、そういった「実は与えられている」という見返りが、ないことのほうが多い。それでは「何のための結婚生活だろう」と振り返ってしまっても仕方がない。
やはり性格の違いは「プラスとマイナス」でなく、「AとB」とあるべきなのだ。母性本能、父性本能の強い男女は、すべからく「自分がついていてやらないと・・・」といった異性を選びがちだが、それが落とし穴になることが多い。対等の、自立した人格同士として付き合うためには、やはり、もたらすものと、もたらされるもののバランスが重要になってくるのだ。