筆者がおすすめしたいのは、廃止された鉄道路線の跡を歩く「廃線散歩」。「なぜ、ここに鉄道が敷かれたのか」「なぜ、廃止になったのか」といった路線や沿線の歴史を調べたり、鉄道の遺構や痕跡がないかを探しながら歩くのだ。ちょっとしたゲーム感覚といってもいい。 今回は、首都圏の鉄道廃線跡の中から、多くの人が楽しく歩けそうな3路線をピックアップし、鉄道廃線めぐりの世界へとご案内したい。
なぜ、廃線時のレールが残されたのか【相模線西寒川支線】
「おい、にゃんこ。危ないよ!」。線路の枕木を枕にして昼寝するネコを見て、思わず、そう叫んでしまいそうだ。だが、当のネコは「大丈夫にゃ。この線路は、もう40年も電車が走ってないのにゃ」と、再び目を細める。 ここは神奈川県のちょうど真ん中に位置する高座郡寒川町。町を南北に貫くJR相模線(茅ヶ崎駅-橋本駅間)に、かつて通称・西寒川支線(寒川駅-西寒川駅間)という、営業距離わずか1.5キロ、列車の運行本数1日4往復という、非常に細々とした支線が存在した。西寒川支線は、もともと1922 (大正11)年に、相模川で採取した砂利を運ぶための貨物支線として敷設された。当時は鉄道・道路・港湾などの都市インフラの整備が盛んに進められ、またわが国にも鉄筋コンクリート建築が登場するなど砂利の需要が高まっていた時代だった(コンクリートはセメントに水・砂・砂利を混ぜ合わせてつくられる)。
その後、沿線に昭和産業という会社の工場が招致されると、その通勤客を運ぶために旅客営業を開始。この工場は太平洋戦争中に海軍に買収され、相模海軍工廠(こうしょう=軍需工場)となる。 戦後は再び貨物専用線に戻るが、海軍工廠跡地周辺が工業団地化すると、1960(昭和35)年11月、旅客輸送を再開。だが、各工場が自前の送迎バスを運転したことなどから旅客輸送は振るわず、今からちょうど40年前の1984(昭和59)年3月31日を最後に廃止になった。
通常、鉄道が廃止されるとレールや枕木は撤去される。だが、西寒川支線の場合、廃線跡に整備された「一之宮緑道」に、およそ180メートルにわたって線路敷きが残されている。これはとても珍しいケースだ(モニュメント的にごく短い区間に残されているケースは多々ある)。 なぜ、レールが残されたのか。寒川町役場を訪問し、当時の資料を見せてもらうと、レール保存に関して次のような経緯が記されていた。廃線跡を緑道として整備する際、地元の小中学生を対象にイメージ募集を行ったところ、「相模線の歴史を現した掲示板」の設置や、「線路や踏切を残す工夫を」といった意見があり、これを踏まえて整備が行われたということだった。
今は、なんでもかんでも危ないといって撤去してしまう風潮だが、こういった鉄道の線路も歴史を語り継ぐ史料となる。実際、この緑道に保存されているレールの中で最も古いのは、1909(明治42)年に官営八幡製鉄所でつくられたものだといい、もはや文化遺産ともいえる。 なお、寒川町観光協会では、西寒川支線関連グッズとして、硬券レプリカ「こどもきっぷ」を2024年2月5日より500枚限定で販売中だ(寒川町観光協会のみで販売)。2023年に販売した「西寒川支線100年記念硬券」が完売したことを受けての第2弾となる。
「乗車券の製造を行う専門業者で作っている」(寒川町観光協会事務局長の久米順之氏)という硬券は、レプリカながら再現度が高く、別売りのケースホルダーに入れるとキーホルダーとしても使えるようになっている。ぜひ、廃線散歩にあわせて手に入れておきたい一品だ。
なぜ、多数の車両を保存できたのか【横浜市電】
レールの次は車両が保存されている場所に出かけることにしよう。首都圏で保存車両数の多い場所といえば、さいたま市大宮区の「鉄道博物館」がすぐに思い浮かぶ。蒸気機関車から通勤電車、新幹線まで数多くの国鉄・JR車両が保存されているほか、鉄道にまつわる歴史展示コーナーなども充実しており、見応え十分だ。だが今回は、本コラムのテーマである「廃線」になった路線の車両を専門に保存している施設に出かけてみることにしよう。横浜市磯子区滝頭(たきがしら)にある横浜市電保存館である。同館には各時代の横浜市電の電車6両と、無蓋貨車(むがいかしゃ ※屋根のない貨車)1両の計7両が展示されており、これは廃線後の路面電車の常設展示施設としては、全国的に見ても非常に充実した内容だ。 横浜市電は長い間、横浜市民の足として親しまれた路面電車だった。その歴史を簡単に説明すると、1904(明治37)年7月に私鉄の横浜電気鉄道として開業後、1921(大正10)年4月に市営化され、関東大震災や太平洋戦争中の横浜大空襲で甚大な被害を受けながらも、その度に復旧された。
市電は横浜市域の拡大とともに路線網を広げ、1955(昭和30)年には営業距離としての最盛期(51.79キロ)を迎えた。これはJR東海道線の東京駅から藤沢駅間(51.1キロ)に匹敵する距離だ。なお、年間乗車人員は1947(昭和22)年から1963(昭和38)年まで、10年以上にわたって1億人以上をキープした。
しかし、1964(昭和39)年5月に国鉄(現・JR)根岸線が開業すると大幅な乗客減少に見舞われ、また、自動車の増加による渋滞で通常運行が困難になったことなどから、1972(昭和47)年3月31日に全線が廃止された。 そして、市電全廃の翌年、1973(昭和48)年8月に滝頭の車両工場・車庫跡にオープンしたのが、横浜市電保存館である。同館では、なぜ充実した展示が実現できたのか、館長の武藤隆夫さんに話を聞いた。
「横浜市電は関東大震災後の車両が不足した時期などに他路線から車両を譲り受けた一方で、他路線へ車両を譲り渡した記録がない。軌間(レール間の幅)1372ミリという、都電や京王電鉄など少数の路線でしか採用されていない特殊なゲージだったからだと考えられる。また、横浜では昭和40年代になっても、昭和初期に製造された単車をはじめ旧式の車両が大量に活躍していた。こうしたことから、各時代の多彩な車両を比較的良好な状態で保存できたのではないか」
また、同館の魅力について尋ねると、「保存車両で一番古いのは、製造から90年以上経つ1928(昭和3)年製の500型車両。こうした歴史的な車両に実際に乗ることができるのが、当館の最大の魅力」と話す。
なお、横浜市電保存館は昨年8月に開館50周年を迎え、さまざまなイベントを催すとともに、展示の一部をリュニューアルした。
新設されたゾーン「ハマジオラマ」では、壁面にイラストで表現した年表を掲示し、市電の時代から現代(バス・地下鉄の時代)をつなぐタイムトンネルを設置するなど、横浜市営交通の歴史をアドベンチャー感覚で楽しみながら学ぶことができる。 同館の目玉展示のひとつであるジオラマも、40年ぶりに全面リニューアル。従来よりもジオラマ上の横浜の風景が細かく表現され、見応えあるものになった。また、スタッフの操作により、スクリーンとジオラマを舞台に、映像・照明・音響を駆使した8分弱のストーリーを展開する「運転ショー」も、毎日5回上映されている。
「運転ショー」のストーリーは現在3種類あり、今回、筆者が見せていただいたのは横浜市営交通の歴史や、普段、交通局がどのような業務を行っているかなどを説明するもの。大人が見ても「なるほど!」と思う内容だ。
開館50周年を迎えたことを踏まえ、今後、力を入れていきたい取り組みについて武藤館長に尋ねると、「近隣の小学校の校外学習で多くの小学生も来館してくれるようになった。こうした子どもたちを中心に、保存車両やリニューアルされたジオラマなどを活用して、しっかりと歴史を伝えていきたい。それが我々の役割」と話していた。
廃線後も地元に愛されている路線【東急玉川線砧支線】
最後に紹介するのは、「玉電」の愛称で親しまれた東急玉川線の支線の1つ、砧(きぬた)線の廃線跡だ。玉電は、かつて渋谷駅-二子玉川園駅(現・二子玉川駅)間を結んでいた路面電車である。1907 (明治40)年4月に開業した玉川電気鉄道がそのルーツであり、当初は旅客輸送のみならず、多摩川の砂利輸送も担った。また、玉川線(本線)のほか、いくつかの支線も運行していた。 二子玉川園駅-砧本村(きぬたほんむら)駅間2.2キロ、多摩川沿いを走った砧線は、1924(大正13)年3月に開業。前年9月に発生した関東大震災からの東京の復興のために大量の砂利が必要とされ、沿線で採取した川砂利を輸送した。
その後、1938(昭和13)年4月、玉川電鉄は東京横浜電鉄(現・東急)に合併された。
戦後になると、高度経済成長期に自動車交通量が増加する中で、各地の路面電車は次々と廃止されていく。玉電のほとんどの路線も、1969(昭和44)年5月に廃止された(下高井戸線=現・東急世田谷線のみが存続)。だが、その路線の跡を歩くと、廃止からすでに半世紀以上が経過した今も、玉電が地元の人たちから愛されているのを感じる。そして、それを強く感じるのが砧線なのだ。廃線跡を案内しよう。
砧線は二子玉川駅から、いったん渋谷方面に戻るように弧を描きながら北西に向かい、現在の玉川高島屋の北側の「花みず木通り」を進んでいた。 まずは、「花みず木通り(砧線跡)」と記された標識に注目しよう。鉄道の廃線跡は遊歩道・緑道として整備されることが多いが、標識に路線名が示されているケースは珍しい。
次に、通りの入口から200メートルほど進んだ交差点の角には「砧線中耕地駅跡」と刻まれた石柱が立っている。二子玉川園駅から1つ目の中耕地駅があった場所だ。近くの歩道上には、中耕地駅の様子が描かれたパネル画が埋め込まれている。 その少し先のコンビニ前のガードレールには、水色に塗装されたレールが使われている。ガードレールがレールというのは、ちょっと面白い。触ってみると本物の質感なので砧線で使用されていた実物かと思ったが、事情を知る人に尋ねるとレプリカだという。 続いて登場するのが、鳥小屋のような形状をした「砧線跡歩道」の標識。目の前を多くの人々が行き交う中、ときおり小鳥がやってきて羽根を休めていた。都会の小さなオアシスといった感じだ。
さらに進むと、道は左へカーブし、県道と交差した先で野川を渡る。この野川の手前に吉沢駅という2つ目の駅があった。野川に架かる吉沢橋の橋上に設置されている案内板には、橋を渡る砧線の電車の写真と共に、砧線と吉沢橋に関する説明が書かれている。 川を渡ると、少し先の右手に鎌田一丁目公園という小さな児童公園がある。近くのバス停名は「三角公園」。敷地が三角なので、三角公園というのが通称なのだろう。当時の地形図を見ても何も描かれていないが、この辺りのどこかに、戦前には伊勢宮河原という駅が存在していたらしい。
さらに歩を進めると、右手に東京都市大学の総合グラウンドが広がる。このグラウンドの入口付近に、戦前に廃止された大蔵という駅があった。すぐ南側は多摩川の河川敷であり、ここで砂利の採取と積み込みが行われていたという。
さて、ここまで来れば終点までもう少しだ。二差路を右側の道(バス通り)へ進むと、やがて目の前に公園が見えてくる。この公園および隣接する砧本村バス停(折り返しロータリー)が、かつての砧本村駅跡である。 ここで1つ残念なお知らせがある。筆者は2018(平成30)年の夏にも砧線跡を歩いたのだが、当時は、砧本村駅の屋根の一部が、サイズを縮小してバス停に転用され、残っていた。しかし、今回(2024年2月)訪れるとこれがなくなり、新しい待合所が建てられていた。どうやら近年、老朽化のために撤去されてしまったらしい。 それにしても、わずか2.2キロの区間に、これだけ数多くのモニュメント的なものが設置されている廃線跡というのは、他ではなかなかお目にかかれない。それが、砧線が地元で愛されていると感じる理由である。
なお、筆者は2023年10月から2024年1月にかけて、神奈川新聞電子版で「かながわ鉄道廃線紀行」という連載を行った。興味のある方は、ご覧いただければ幸いである。
かながわ鉄道廃線紀行まとめ
――編集部より――
2024年10月に発売になった『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜 著、神奈川新聞社 刊)では、神奈川県内の11の鉄道廃線跡を豊富な写真やオリジナル路線図とともに紹介しています。