あれから20年が経った今、東白楽-横浜間、横浜-桜木町間の線路跡は、どのようになっているのか。以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜著 2024年10月神奈川新聞社刊)の内容を一部抜粋し、都会に出現した鉄道廃線跡の活用例を見ていくことにしよう。
横浜の都市部にも廃線跡が
最初に向かったのは東白楽駅。東横線の地上区間の最南端に位置する駅である。駅名になっている「白楽」という一風変わった地名は、この辺りに神奈川宿(東海道の宿場)の伯楽が多く住んでいたことに由来するという。伯楽というのは馬喰(ばくろう 馬の治療や売買・仲買をする者)のこと。学生時代は気にも留めなかったが、地名というのは調べてみるとなかなか面白い。
東白楽の駅前を横切る県道12号線(横浜上麻生道路)上を、かつて横浜市電の六角橋線が走っていた。市電六角橋線が廃止になったのは1968(昭和43)年のこと。もはや大昔だ。この県道を渡った先に、東横線の地上線跡を活用して整備された「東横フラワー緑道」の入口がある。
開口部に設けられた跨線(こせん)橋から先は、横浜方面へ向かって地下を走る東横線の真上に緑道が延々と続いている。緑道を歩いていると、時折、通気口を通じて地下を通過する電車の轟音(ごうおん)が聞こえてくる。
緑道を200mほど進むと、やや広めの道路と交差する。うっかりすると気づかずに通り過ぎてしまうが、実はこの場所は東横線の重要な史跡である。交差点の角のマンションの植栽に、駅の乗り場案内のプレートを模した「新太田町駅跡」と書かれた小さな案内板が設置されているのを探してみよう。
わずかな期間のみ復活した“幻の駅”
新太田町駅というのはかつて存在した東横線の駅である。案内板は表面が劣化しており、文字が読み取りづらくなっているが、新太田町駅について、次のように記されている。廃止後、わずかな期間のみ復活したことから、“幻の駅”とも言われているようだ。東京急行電鉄東横線新太田町駅は、1926年(大正15年)2月14日に開設され、1945 年(昭和20年)5月29日の空襲で被災したため6月1日より営業を休止し、翌年1946年5月31日廃止となりました。その後、新太田町駅跡は、1949年(昭和24年)日本貿易博覧会が反町付近で開催されたときには、会期中(昭和24年3月15日~6月15日)に『博覧会場前』駅として旧駅を利用して臨時駅が開設されたこともありました。
散歩を続けよう。鉄道廃線跡を辿ろうとすると殺風景な景色の中を歩く場合も多いが、この道は「フラワー緑道」というだけあって、色彩豊かなさまざまな草木が目を楽しませてくれる。また、足元を見れば、部分的にではあるがボードウォークにレールがはめ込まれている区間もあり、廃線旅の気分も味わえる。
新太田町駅跡から300mほど歩を進めると、反町駅の手前に、国道1号線(横浜新道)を跨(また)ぐ橋がある。この橋(東横フラワー緑道反町橋)は、かつての東横線の鉄道橋を活用している。
反町駅を過ぎると、やがて前方に「高島山トンネル」が見えてくる。このトンネルも、かつての東横線の遺構である。『東京急行電鉄50年史』には、高島山トンネル開削時の難工事の様子が、次のように記録されている。
このトンネルが貫く高島山(神奈川区高島台)は、横浜の実業家で易学者でもあった高島嘉右衛門(かえもん 「高島易断」の祖、1832~1914年)ゆかりの地だ。嘉右衛門は洋学校「高島学校」の開設や、ガス事業をはじめ、都市としての横浜の形成期に大きな功績を残した、「横浜の恩人」の1人とも言われる人物である。 嘉右衛門は鉄道との関係も深く、新橋―横浜(現・桜木町)間に敷設された日本初の鉄道建設工事に際し、力を尽くしている。袖ヶ浦とよばれる深い入江で工事の難所とされた、現在の神奈川区青木町付近から桜木町駅(初代横浜駅)手前までの海面埋め立て(築堤)を請け負い、その工事を高島山(当時は大綱山とよばれた)から指揮監督した。嘉右衛門によって造成された埋立地は「高島町」と命名され、今もその名を残している。高島山隧道(ずいどう)は、当時、関東私鉄では例のない延長173.72mの複線隧道であった。当初は、大正15年1月に竣工の予定であったが、竣工まぎわになって隧道頂部に亀裂がはいったため遅れ、ようやく2月14日の開業日に間に合わせた。
なお、高島山の頂上部にある「高島山公園」には、嘉右衛門を顕彰する「望欣(ぼうきん)台の碑」が立てられている。実業界から身を引いた嘉右衛門が、かつて埋め立て工事を指揮したこの高台に大規模な山荘を築き、横浜の繁栄する様子を望みながら、「ひとり欣然(きんぜん)として心を癒やした」(「望欣台の碑」の説明板)ことに由来するという。
3つも存在した神奈川駅
高島山トンネルを通り抜けた先には、かつて東横線の神奈川駅が存在した。1926(大正15)年2月に東横線(当時は東京横浜電鉄)が、丸子多摩川(現・多摩川)-神奈川間で開業したときの終点駅であり、省線(現・JR 東海道線)の神奈川駅との接続を図った。この東横線の神奈川駅も、省線の神奈川駅も後に廃止され、現存しない。どんな駅だったのだろうか。1927(昭和2)年時点の反町駅(中央上)から神奈川駅(中央下)の地形図。省線神奈川駅西側に東京横浜電鉄の神奈川駅、東側に京浜電鉄の神奈川駅および市電の停留場が見られる(出典:国土地理院地形図「神奈川」「横浜」を合成)
書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、この後、当時の写真や地形図などを頼りに、3つも存在した神奈川駅の謎に迫ります。また、横浜―高島町―桜木町間の廃線跡も散策し、廃線跡の高架橋の活用計画や、かつて桜木町駅に隣接して存在した広大な貨物駅・東横浜駅なども紹介します。
森川天喜 プロフィール
神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など
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