人望の厚い夫だが……
友達も多く、社内での人望も厚い男性。それなのに、ある日突然、彼の妻は出ていった。「いい人なのはわかっているけど」と妻は言う。いったい、この夫婦に何があったのだろうか。ユキエさん(47歳)が家を出たのは3カ月前。まだ離婚届は出していないが、彼女は離婚に向かうつもりだ。夫とは2回ほど会ったが話し合いは進んでいない。
社内恋愛から結婚して20年。ひとり息子が遠方の大学に入ったころから、彼女は「ひとりになる」ことを考え始めた。
「夫が外でいい人なのはわかっていました。付き合っているころから友だちは多かったし、同じ会社だったから、上司からも同僚からも信頼されているのも知っていました。私が結婚したときは、同僚女性たちから『やったわね』と、妬みともそねみともとれるような言葉ももらいました」
家庭も順調だった。本当はもうひとり子供がほしかったが、できなかった。なぜなら息子を妊娠してから、一度もセックスをしていないからだ。
「子供が1歳になったころかなあ、私から誘ったことがあるんですよ。すると彼は、汚らわしいものでも見るかのように私を見たんです。『子供はひとりでいいよ』って。いや、子供ができるかどうかはあくまでも結果。私はあなたとひとつになりたいの、とちょっと甘いことを言ってみたんです。そうしたら彼、『どうして愛情とセックスを結びつけるの?』と不思議そうな顔をした。彼にとって、夫婦のセックスはあくまでも子供を作るため。私はその『子供を作る』という言い方にもひっかかったし、セックスを誘った私を見たときのあの目も忘れられない。傷ついたんです」
自分が傷ついたことも話したが、夫にはわかってもらえなかった。
出世していく夫
セックスのことを持ち出さなければ、夫は普通以上に「いい夫」だった。息子とよく遊ぶし、時間があれば週末は掃除や料理もしてくれる。ただ、息子が大きくなるにつれ、夫は出世街道に乗ってどんどん忙しくなっていった。同期の中でも異例の出世、会社始まって以来初の30代部長となり、40歳で副社長に。
「副社長になったとき、帰宅して『これもきみのおかげだよ』と言ってくれたんですが、そのときふと気づいたんです。彼の言い方に心がこもってないことに。優しげなことを言うし、温かい行動をとるけれど、彼の頭の中ではいつも、『ここではこう言うべき』『こう言っておけばうまくいく』という計算があるんじゃないか。そう思いながら彼の言動を見ていると、確かにそうなんですよね。彼はときどき近所のゴミ捨て場を掃除したりするんですが、絶対に誰かが外にいるときにやる。しかも、さりげなく、あたかも誰も見ていなくてもやってます、という体でやるんですよ。ただし、誰もいないときはやらない。つまり、人からの評価を受けるための行動なんです」
巧妙な計算の上に成り立っていた夫の言動に、ユキエさんはうんざりした。そのあたりから夫への不信感が募っていく。
パートナーシップのない夫婦
それでも表面的にはうまくいっていた。夫は浮気もしないし暴力もふらない。「ただ、私をパートナーだと思っていないことは確か。あるとき、夫がふっと大きなため息をついたので、『何か心配ごとでもあるの?』と言ったら、『きみに話しても解決するわけじゃないからね』って。それでも話せば少しはラクになるかもと言ってみると、冷たい目で私をじっと見たんです。かつてセックスを誘ったときの目と同じ。ものすごく惨めでした。私はいったい、あなたの何?と思わず言ってしまった。『妻だよ』と言われたけど、それはあくまでも婚姻届を出した関係というだけ」
心が通い合っていないのだ。夫婦であることと、パートナーシップがあることとは違う。それ以来、ユキエさんは自分の人生は何だったのかと考え続けた。更年期にさしかかったこともあり、心身の状態が悪化していく。夫の顔を見ると、気持ちはどんどん沈んでいった。
「そこで家を出ました。今は小さなアパートに住んで、介護の仕事をしています。私でも人の役に立てるのがうれしい。夫は『金なら好きに使えばいい。そんな仕事をするな』って。それも私にとっては屈辱だし、夫の気持ちの冷たさが出ていると思います」
それにしても、ユキエさんの夫は外面と内面が違いすぎないだろうか。
「彼にとって、妻というのは自分に隷属するものなんでしょう。外の他人にはどう振る舞えば評価されるか考えるけど、妻にはどう思われてもいいんじゃないかしら。自分のモノだから。ただ、大声で怒鳴ったり暴力をふるったりすれば他人にもわかってしまう。そういうことはしないんですよ。隷属するモノだから、そこまで興味も抱いていないだろうし」
いるのに存在を意識しないということか。そういう存在だと思われながら一緒に生活していくのは苦痛以外の何ものでもない。長い間に積み重なってきた彼女の心の苦しさが垣間見える。だから彼女は家を出たのだ。
「夫は在職中は離婚してくれないでしょうね。それでも、私は私の人生を見つけていくしかないなと少しずつ思い始めています」