徳川氏発祥の土地・群馬県太田市 “徳川町”

徳川発祥の地

写真左:郷土カルタに詠まれた徳川発祥の地の札、写真右:資料館駐車場付近には 「徳川氏発祥の地」 と書かれた大きな看板が!

江戸時代の離婚事情を描いた映画 「駆け込み女と駆け出し男」。物語の舞台は鎌倉の東慶寺でしたが、映画の中で「幕府公認の駆け込み寺は、鎌倉の東慶寺の他に上州 (じょうしゅう) の満徳寺…」と出てきてビックリ!上州とはまさに群馬県のこと。早速もうひとつの駆け込み寺に行ってみました。

満徳寺に行ってみて、まず最初に驚いたのが、この場所の地名が 「群馬県太田市 “徳川町” 」 だったことです。地名が “徳川” とは、それだけで特別感が伝わってきます。何でも徳川家の先祖・新田義季 (よしすえ) が、この周辺・世良田 (せらだ) 地域を領地としていたそうで、その義季から数えて9代目にあたるのが徳川家康ということです。また、満徳寺を建立したのも義季で、出家した義季の娘が満徳寺最初の住職となりました。

徳川ゆかりの地というだけではなく、この地域の人々が徳川家から優遇されていたことを示すエピソードもありました。なんと農民たちは脇差 (わきざし・長い刀に添えられ、脇に差すよう作られた短い刀のこと) を差し、大名行列が通る時にも土下座をしなかったと伝えられています。当時、武士の身分ではない人々には到底許されぬことが、この地域の人々には許されていたということにも驚きました。

縁切り文化を伝える満徳寺遺跡公園

今の時代では信じられないことですが、江戸時代は夫の三下り半(離縁状)がなければ、妻は自由に離婚をすることができませんでした。どうにもならなくなり、最後の手段として駆け込んだ妻たちを救済し、離婚できるまでに導いてくれた窓口が、縁切寺または駆け込み寺とも呼ばれる満徳寺や東慶寺でした。

両寺とも尼寺で、こういった男子禁制の尼寺には縁切寺的な機能があったそうです。そして、このような縁切り文化を伝える場所として、1992年に万徳寺資科館が、その後、廃寺となっていたお寺の本堂や玄関、門、庭などの復元工事も行われ、1994年に遺跡公園がオープンしました。

敷地地図

敷地内にある案内看板、資料館 (1) や復元された満徳寺 (2) 、駆込門 (10) など、 敷地内の位置関係がよくわかります


ただ、全国広しといえども、幕府から公認された縁切寺は、上州の満徳寺と鎌倉の東慶寺の二つだけでした。なぜ、この二つの尼寺だけが幕府公認だったのか?それには、徳川家康の孫娘である千姫 (せんひめ) が大きくかかわっているようです。

東慶寺には、千姫が命を助けた豊臣秀頼の娘が入山し、のちに二十代目の住職となっています。また、満徳寺は千姫が入山(身代わりが入山したとも伝えられている)して、離婚が成立した後に再婚したことなどから、家康に縁切寺の制度を特別に許可され、両寺とも古くから特権が与えられていたと伝えられています。

対照的な二つの尼寺

満徳寺本堂

復元された満徳寺の本堂

満徳寺は、もともと檀家 (だんか) を持たない寺でした。江戸時代は徳川家に護られ続いていましたが、明治維新後に幕府が消滅すると、1872年 (明治5年) に廃寺となります。これは尼僧が亡くなったあとも僧寺 (そうじ・男性の僧侶のいる寺の意味) として続いてきた東慶寺とは対照的です。

昨年、あじさいの時期に東慶寺にも足を運んだことがありますが、東慶寺は鎌倉という立地条件に恵まれた場所に創建されたこともあり、早い時期から人々に知られる機会に恵まれていた一方、満徳寺は街道からも遠く離れた内陸部にあり、旅人の出入りも少なく、世に知られる機会に恵まれにくい条件にあったことで、大きく異なります。

また、江戸時代には縁切りを詠んだ川柳などもありましたが、ほとんどが東慶寺に関するものばかりだったそうです。このようなことからも、知名度が高くなった東慶寺と、人知れず歴史の中に埋もれてきた満徳寺ではとても対照的に写りました。

今は開かずの駆込門

駆込門

写真左:道路側の正面から見た駆込門、写真右:お寺の敷地内から見た駆込門

映画の中でも、駆け込み女が寺の直前で追っ手に追いつめられ、捕えられそうになったとき、髪にさしていた “かんざし” や 履いていた “ぞうり” などを門の中へ投げ込めば、境内に駆け込んだとみなされたというシーンが出てきます。なかには追っ手もなく、無事に駆け込んだ女性もいたようですが、彼女たちを迎え入れた「駆込門」は、縁切り文化を象徴する場所でもあります。

今は開けられることもなく門を閉ざしたままですが、江戸時代に意を決してこの門をくぐった女性たちがいると思うと、何だか感慨深い場所でもあります。

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