●四宮義俊 SHINOMIYA YOSHITOSHI 1980年 神奈川県生まれ 2008年 学位博士号(美術)取得 →最新情報 ●近頃思うこと。制作=生活 ●All About で興味あるテーマ:旅の便利・お得情報
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制作の視点
言葉にできない衝動のようなものが作品を作らせていた事もあるけれど、それは文字通り他者に説明できないもので、作品を介したコミュニケーションは、およそ他力本願なものの様に思える。造り手が『意味』や『物語』を用意するのだけれど、仮に作品の提示場に制作者自身が出かけて「意味付け」を行なっても、自身の作品が他者によって語られる余地を奪う行為になってしまうような感覚を抱く。もしくは自身の作品を短命にしてしまうのではないかと、思える。実用的じゃないそういった事柄が、現実の『何か』をあんまり変えたりしないので、とりあえず前向きな要素をその都度見つけつつ、描き続けていたりする。
作品について
作品は何年生きるのか?日本画の中で妄信されている事柄の一つに、日本画長生き伝説がある。
アカデミックな画法をとれば、千年は持つと言って胸を張っていたりする。相対的に人間の寿命と比べると長生きしているように感じられるけど、数多ある文化財の中では紙と筆で描かれた、比較的短命な表現方法だったりする。気候風土は切り離せないが、世界中探せば、紀元前の石盤が転がっている町はいくらでもある。「せめて二千年くらい持てば…」とよく考えたりする。けど無意味だ。人間の寿命と同じく、千年前後という限られた時間の中でどのようなパフォーマンスを作品に与えられるかが問題となってくる。気候風土上の問題から、表現する地域性や場はある程度、選別したほうが良さそうだ。それに画材ではなく素材を見直さなければならないな、とも思う。もっと言えばいつ頃意味を発揮することが望ましいのか。
素材の性格を見直せば自ずと、「明日意味を発揮したいならその方法で、500年後くらいに意味を発揮したいならその方法で…」。
誰かが語る(作者を含む)、時間の中の一つのコマに落とし込まないように、気をつけてる。割とこじんまりした地域の中でしか作品は長生きしない。意味付けを付加させつつ、逃れつつ。
「作用点」2007年 |