世界遺産/ヨーロッパの世界遺産

フィレンツェ歴史地区/イタリア(3ページ目)

「屋根のない博物館」の異名をとるフィレンツェは、愛を礼賛し美を庇護したルネサンスの中心地。今回はイタリアの世界遺産「フィレンツェ歴史地区」の美しい街並みと、ヨーロッパに愛と美を再生したその歴史を解説する。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

フィレンツェとメディチ家と芸術家たち

ヴェッキオ橋

ヴェッキオ橋。川幅が狭くなるこの場所にはローマ時代から橋が架けられていたという

ここで少しフィレンツェの歴史を見てみよう。

フィレンツェは古代ローマ時代より花の女神フローラの街として発展した。12世紀に自治都市になり毛織物業で栄えると、金融業も発達させてイタリア屈指の都市にのし上がり、トスカーナの地を支配してフィレンツェ共和国の首都となる。

ここで登場するのがメディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチ。銀行家として手腕を発揮して教皇に認められ、莫大な富を築き上げると、息子のコジモ、孫のピエロ、そして曾孫のロレンツォ・デ・メディチの時代にフィレンツェを実質的に支配する。

アンジェリコ「受胎告知」

アンジェリコ「受胎告知」1437~1446年頃、サン・マルコ美術館。アンジェリコもメディチ家の庇護を受けていた

ロンドンやブリュッセルなど当時最先端の地に次々と支店を設立し、フィレンツェの発行するフロリン金貨が基軸通貨となると、ヨーロッパ経済の中心を担うに至る。こうして1400年代=クアトロチェントに黄金期を迎える。

メディチ家は芸術を奨励し、ミケランジェロら多数の芸術家を庇護した。フィレンツェは芸術の都として発展し、多くの芸術家がこの地に集まった。

 

メディチ家の没落とルネサンスの終焉

ヴェッキオ宮殿とウフィツィ美術館

中央奥がヴェッキオ宮殿、左右がメディチ家の膨大なコレクションを集めたウフィツィ美術館

サン・ミニアート・アル・モンテ教会の内部

サン・ミニアート・アル・モンテ教会の内部

15世紀末になるとメディチ家の財政は悪化し、1494年にフランス軍が進攻してくると市民によって追放されてしまう。ルネサンスの中心はローマへと移るが、やがてメディチ家はハプスブルク家の支援を受けてスペイン軍とともにフィレンツェに復帰。1513年にジョヴァンニがローマ教皇レオ10世として即位すると、メディチ家は今度はローマで芸術を保護し、ルネサンスはついに最盛期を迎える。

レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂建設の資金を得るために発行した免罪符がルターの宗教改革のきっかけとなり、ヨーロッパを混乱に導いてしまう。続くクレメンス7世はフランスにつき、これが神聖ローマ帝国のローマ侵入を招いてローマは破壊されてしまう。ローマ略奪を受けてメディチ家はフィレンツェを追放されるが後に復帰し、1569年にトスカーナ公に任じられてトスカーナ大公国を打ち立てる。

 

しかし、宗教改革は進んでローマやバチカンを中心とするイタリア自体の影響力が低下。また、大航海時代の到来で地中海貿易の役割が半減し、時代の中心はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスへと移っていく。こうしてルネサンスはその役割を終え、1737年にはメディチ家が断絶。トスカーナ大公国もイタリアの小国へと落ち着いていく。
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