横綱に求められるのは「品格」か「強さ」か?
その背景には大相撲を神事とし、格式を重んじる考え方がある。たしかに大相撲は神事であるが、同時に実力勝負のスポーツの側面も併せ持っている。
果たして横綱に求められるのは「品格」なのか「強さ」なのか?
日本人より日本人らしいと言われてきた白鵬
白鵬が現在の地位を確立する過程で、避けて通れないのはモンゴル出身の先輩横綱朝青龍の存在だ。「悪役」と言われ、土俵の外での行儀の悪さがたびたび話題になるなど品格には問題があった一方、土俵上では別格の強さを誇っていた。
こうして一時代を築き上げていった朝青龍を追うように台頭してきたのがモンゴル出身の後輩、白鵬だ。後に青と白の対決と呼ばれるようになるように、朝青龍と白鵬は双璧として相撲界の頂点を極めることとなった。
白鵬のイメージは朝青龍との対比から生まれたもの
二人の横綱は、たびたび「悪」と「正義」のような対立構造として語られた。もちろん正義の役回りとされたのは白鵬のほうだ。来場客も”悪役朝青龍”のファンと”正義の味方白鵬”のファンに分かれて熱狂する時代が続いたが、この図式がやがて白鵬を品行方正というイメージで縛ることになる。
朝青龍が引退すると、白鵬にそれまでとの”違い”が目につくようになった。マスコミの取材拒否、優勝後のインタビューに応じない、あるいは判定への不服などが取り沙汰された。
それを「白鵬の朝青龍化」と称する意見も聞かれるが、その認識は必ずしも正しいとは言えない。なぜなら、白鵬の品格に対する過度な期待と現実とのギャップが表面化しただけの可能性があるからだ。
相撲は勝たなければ昇進しない
横綱に求められるのは強さか品格か。その答えは簡単には出せないが、相撲は勝たなければならないことを一番よく知っているのは誰より横綱本人だろう。15年春場所の14日目、白鵬が立ち会いの変化で大関稀勢の里を下した際、観客からブーイングが浴びせられ、メディアからも横綱の品格を欠くと批判された。
では、勝つことより品格を取るべきか?
それも違うだろう。
なぜなら相撲は勝たなければ昇進しないからだ。
かつて品格だけが評価されて横綱になった力士はいない。
横綱になった力士は、例外なく勝って昇進してきたのである。
もし横綱が立ち会いで変化することがいけないなら、たとえば「番付上位力士は自分より下位の力士を相手に変化は禁止」あるいは「三役力士は変化は禁じ手」というようにルール化しなくてはいけない。だがそれをした瞬間、相撲は実力勝負ではなく、ショーと化してしまう。
では、国民は品格と強さのどちらを重視しているのだろうか。