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覆面レスラー物語1:元祖はなんと慶応元年デビュー

エンターテインメントの要素も重要視されるプロレスでは、5秒以内なら反則が許されるというルールや複数の人数で戦うタッグマッチやバトルロイヤルなど独特なルールがありますが、覆面レスラーというのも他の格闘技の選手ではあり得ないものです。顔を隠し、正体がわからない競技者など普通は考えられません。これも非日常空間を演出するプロレスならではのもの。覆面レスラーの歴史は古く、慶応元年にまで遡ります。

小佐野 景浩

執筆者:小佐野 景浩

プロレスガイド

こんなに古い覆面レスラーの歴史

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月光仮面ブームに乗ったミスター・アトミック

他の格闘技ではあり得ない、覆面を被った正体不明のレスラーが初めて出現したのは149年前の慶応元年(1865年)、フランスのパリです。その名はズバリ、ザ・マスクド・レスラー。正体はセオボー・バウアーなる人物で、マスクを被ってデビューし、サーカス団に所属してフランス各地で見世物的なプロレスをやっていたそうです。

アメリカの覆面レスラー第1号は大正4年(1915年)にニューヨークのオペラハウスに出現したマスクト・マーベル。その正体はモート・ヘンダーソンという選手でした。

日本に初めてやってきた覆面レスラーはメキシコのラウル・ロメロ。柔道の鬼・木村政彦が力道山に対抗して旗揚げした国際プロレス団に1956年4月に来日しました。漫画「キン肉マン」にも登場するプロレス技“ロメロ・スペシャル”の考案者と言われており(リト・ロメロという選手が考案したという説もある)、168センチの小さな選手でしたが、メキシコ・ジュニアヘビー級王者として来日した実力者です。

しかしマイナーな国際プロレス団への来日だったということで、世間一般に知られることはなく、インパクトは残せませんでした。


「月光仮面」とリンクした赤覆面アトミック人気

日本で最初に人気が爆発した覆面レスラーは59年4月に力道山の日本プロレスに初来日したミスター・アトミック。本国アメリカでは素顔でゴールデン・テラー、あるいはザ・プリチュアの名前で活躍していました。

人が良さそうな風貌で迫力に欠けていたのがマイナスポイントで、中堅選手に甘んじていましたが、その実力を買っていた力道山は日本に呼ぶにあたって赤いマスクを被せることを思い付いたのです。ミスター・アトミックという名前は元映画監督で当時は日本プロレスの宣伝広報部長だった押山保明氏でした。

力道山と押山氏のアイデアは当たりました。アトミックが来日する前年の58年2月24日からKRテレビ(現在のTBSテレビ)で木村文武主演による実写版「月光仮面」が放映されて人気を博しており、赤覆面にマント姿で登場したアトミックはプロレス版の仮面戦士として人気が爆発したのです。

ただしアトミックは正義の味方ではなく悪党。初来日した時、力道山は渡米中。アトミックは力道山不在をいいことに遠藤幸吉、吉村道明、芳の里らを覆面にコイン状の凶器を忍ばせた反則頭突きで流血させてKO。悪いことをすればするほど悪党人気に拍車がかかり、力道山帰国後に開催された『ワールド大リーグ戦』はアトミック見たさにどこの会場も超満員になりました。

力道山とアトミックは決勝トーナメントで激突。ボクシング仕込みの反則パンチを振るうアトミックに激怒した力道山が覆面を剥ぎ、素顔にチョップを乱打して流血させて反則負けになってしまいました。力道山の決勝戦進出が消えてファンは落胆しましたが、ダメージが大きいアトミックが棄権したため力道山が決勝戦に。結局、決勝戦でジェス・オルテガを撃破した力道山が優勝しました。

『ワールド大リーグ戦』はプロレス人気がやや下火になってきた中で力道山が起死回生のイベントとして開催し、見事に起爆剤となりましたが、アトミックは悪党人気で観客動員に大きく貢献したと言っていいでしょう。
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