散歩/昭和を振り返る散歩ルート

天丼を食べて、山谷界隈を歩く(3ページ目)

前回に続き、東京のディープゾーンともいえる吉原、山谷界隈を散歩することになった。天丼を食べ、泪橋、山谷堀公園から隅田川まで。戦前の建物が残る街を歩いた。

増田 剛己

執筆者:増田 剛己

散歩ガイド

いよいよ山谷、泪橋

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簡易宿泊施設「いなりや」さん。緑に覆われた不思議なたたずまいであった。
お腹もいっぱいになったところで、僕たちは泪橋交差点をめざすことにした。
前述したように山谷という住所はない。しかし、住宅街に現れた稲荷神社のあれはなんというのだろう、石でできた囲いの中に「山谷四丁目」といった昔の地名を見ることができる。
なるほど、簡易宿泊所が多い。安いところは1000円台、たいていは2000円台である。
江戸時代からこの地域は、素泊まりだけの簡易宿泊施設「木賃宿」と呼ばれるものが多くあったのだそうだ。男たちはそこに寝泊りし、その日その日の労働を得ていたのだ。
こういう地域を「ドヤ街」という。ドヤというのは、宿をひっくり返した隠語である。
「昔は、このあたりは暴動が起こったりして、騒然とすることがよくあったんですよ」
とケイさんが教えてくれた。昔というのは、今から40年くらい前。昭和40年代のことらしい。パトカーが何台もきて、機動隊と労働者たちが対峙するなんてことが日常茶飯事だったそうだ。
きれいな植物などが家の前にあってごく普通の下町風景の中に簡易宿泊施設などが混在する地域だ。泪橋に近づくにつれ、ふらふらと道を歩いている男性たちがいるのだが、高齢化が進んでいるのか、たいてい僕より年上に見える。
長く営業しているという煙草屋さんがあったので、少し話を聞いてみた。昔ほどではないが、今でも年末などは、警察がたくさんきて取り締まりにあたっているそうだ。
そして、いよいよ泪橋である。

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何もない、普通の交差点になっている泪橋。明治通りの隅田川側から交差点を撮影。
「あしたのジョー」に登場する丹下ジムは、ここ泪橋あたりにあったように記憶している。今は、橋もなにもないただの交差点である。
かつてはここに思川という隅田川に流れ込む川があったそうだ。思川は、農業用水路であった音無川の支流で、かつては源頼朝が馬を洗ったことから駒洗川(こまあらいがわ)とも呼ばれていたそうだ。ちょうど今の明治通りがその川筋にあたる。
かつて、この先の南千住には、仕置き場といわれた刑場があった。この橋で、罪人の知人や家族が今生の別れと涙を流したとも、囚人たちが泣きながら渡ったからだともいわれている。いずれにせよ、悲しいネーミングだ。
僕たちは、かつての思川、明治通りを歩いてみた。清川二丁目の交差点で、朝寝坊した岡本まーこ嬢とも合流。そこから、南千住方向へ歩いた。
以前の散歩でも訪れた南千住の小塚原回向院へ向かうことにしたのだ。

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なんとも歴史のある石像が多数ある。
前回の散歩ではサッと表を見ただけだったけれど、今回は中まで入ってみることにした。「小塚原の首切り地蔵」という大きなお地蔵様がいる。ずいぶん古いものである。1741年、小塚原刑場の敷地内に立てられたそうだ。なるほど古い。鉄道が敷設されたことで、線路の南側からここに移されたとのこと。大きなお地蔵様の周辺にも小さな石像がいくつもある。これも年代の古いものばかりである。
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