日本の「子どもの貧困率」は13.5%
お金のちょっとしたすれ違いは、ときには人を悩ませ、ときには縁の切れ目にも……。男女の人間関係に関する著書も多いフリーライター、亀山早苗さんが、お金にまつわる複雑な人間模様のお話をお届けします。先進国の日本において「貧困」というとあまり実感がわかないかもしれませんが、厚生労働省によると、2018(平成30)年の貧困線(等価可処分所得の中央値の半分)は127万円となっており、そうした環境で生活している18歳未満の割合を示す「子どもの貧困率」は13.5%、つまり、子どものうち約7人に1人は貧困状態にあるといわれています(参照:2019年国民生活基礎調査(※3年に1度の大規模調査、2020年発表))。
こうした状況を受けて、今でこそ、子どもの現在・将来がその生まれ育った環境によって左右されることのない、「貧困の世代間連鎖」のない社会を実現するための法律や支援方針なども整備されてきていますが、自らの手で貧困の連鎖を断ち切って強く生きている人もいます。今回は、そんな女性のお話――。
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貧困は親から子へと連鎖しがちだ。それを断ち切るのは、「教育しかないと思う」と語る女性がいる。彼女自身、貧困家庭に生まれ育ったが、血の滲むような努力でその連鎖を断ち切りつつあるところだ。
雑草をとって食べたことも……気づいたら貧しかった
母親はうつ病を患って働けず
「離婚理由は父の浮気らしいです。私たちを捨てて家を出て行ってしまったと聞いています。今思えば、母は何もかも嫌になってしまったのかもしれません。2歳年下の弟がいるんですが、私と弟のために食事を作る気にもなれず、小さいころから菓子パンやカップラーメンばかり食べていたような記憶があります」
ユリナさん(33歳)は、そう振り返る。公営住宅で生活していて生活保護ももらっていたのに、どうしてあんなに貧乏だったのだろうと疑問も抱いているという。
「おそらく母が何かに使っていたんでしょうね。小学校に入ると、給食が唯一の栄養源。でも弟のためにパンを持って帰ることもありました。帰り際、原っぱで食べられる雑草をとって帰って茹でて食べたこともありますね」
友だちの家でごはんをごちそうになったときは、おかずの多さに驚いた。ユリナさんの家では、たまたま母が作ってくれたとしてもごはんに味噌汁、野菜炒めが定番だったからだ。友だちの家では肉料理や小鉢もあった。
「小学校中学年になって、うちは貧乏なんだとやっと認識しました。母は働こうとしたこともあったけれど、やはり働けないと言って生活保護に逆戻り。そんなことがずっと続いていましたね。お腹がすいて、友だちの家でドッグフードやキャットフードをくすねて食べたこともあります」
今は笑いながらそう言うユリナさんだが、当時は本当にひもじい思いばかりしていたという。
「中学2年生くらいのとき、母から『高校には行かなくてもいいんじゃないの?』と言われました。私はけっこう勉強が好きだったので、公立高校に行かせてほしいと泣きながら頼んだんです。この家から逃れるためには、勉強するしかないとも思ってた」
父も母も高校中退だった。祖父母も勉強とは縁のない家系だったので、ユリナさんは貧困から抜け出すには教育を受けることだと確信していたという。
大学進学を母に猛反対されて
公立高校に進学したユリナさんの成績はさらに伸び、国立大学への入学を視野に入れるようになった。母はもちろん大反対だった。「女が大学に行って何になる、と。母は当時、40代前半。それなのにそんなことを言うんですよ。呆れました。私は学校の先生と話し合って進路を決めていったんです」
当時、中学生だった弟は悪い仲間に入り、荒れた。それを全力で引き戻したのもユリナさんだった。
「そんなことしていたら、今と同じ環境で一生過ごすことになるんだよ。自分でがんばるしかないんだよ、私たちは。これには弟もグッときたと言っていました。私は弟に必死に勉強を教えて、なんとか公立高校に進ませることができた。それはうれしかったですね」
みごと現役で国立大学に合格したユリナさんは、アルバイトと奨学金で学費を工面しながら勉強を続けた。弟も大学進学を考えたようだが、結局、好きだった料理の道へと進んだ。
「高校時代の弟の趣味は料理だったんです。安い食材でいろいろ工夫して作ってくれた。それが高じて料理人になろうと思ったみたいです」
弟はいちはやく家を出ていった。ユリナさんはなんとか母を立ち直らせようとしたが、母は変わろうとはしなかった。そのころには昼から酒を飲んでばかりで、病院につれていこうとしても頑として動かなかったという。
「母のことは心配でしたけど、結局、それは母の選んだ人生だと思うしかなかった。私は母と同じ道は選ばない。何度もめげそうになったけど、常に教師や心許せる数少ない友人たちに支えられてきました」
自分の娘にあんな思いをさせたくない
無事に大学を卒業したユリナさんは、とある専門職に就き、仕事を始めた。彼女をずっと支えてくれた大学時代の男友だちと、ようやくつきあおうという気持ちになったのは25歳を過ぎてからだ。「結婚するのが怖くて、しばらくは彼と同棲していました。30歳のとき妊娠して婚姻届を出し、やっと自分が家族を作るんだと自覚できたんです」
同じ時期、母はアルコール依存がひどくなり、自滅するように病死した。ああはなりたくないとずっと思っていた母だったが、死なれてみて初めて、それでも自分の母だったと複雑な心境だった。
「私は絶対に、自分の娘にあんな思いをさせたくない。それと娘にもきちんと教育を受けて仕事をもっていてほしい。私、万が一、夫と別れても娘を育てていけるだけの仕事があって本当によかったと思っていますから」
それでも、いつか自分も職を失うかもしれない。生活保護を受けなければならない状況に陥るかもしれない。それでも仕事を見つけて生きる意欲だけは失いたくはない。それが「母を反面教師として生きる」ことにつながるとユリナさんはつぶやいた。
教えてくれたのは……
亀山 早苗さん
フリーライター。明治大学文学部演劇学専攻卒業。男女の人間模様を中心に20年以上にわたって取材を重ね、女性の生き方についての問題提起を続けている。恋愛や結婚・離婚、性の問題、貧困、ひきこもりなど幅広く執筆。趣味はくまモンの追っかけ、落語、講談、浪曲、歌舞伎、オペラなど古典芸能鑑賞。All About 恋愛ガイド。