プレッピーのオフィシャルなハンドブック...

『オフィシャル プレッピー ハンドブック』
リサ・バーンバック編 
宮原憲治訳 講談社(重版未定)

2006年春夏、ハマトラやニュートラ、プレッピーといったキーワードが復活している。
ハマトラやニュートラは、元祖JJ系とも呼べるような山の手のお嬢様系のファッションとして、イメージしやすい。
しかし、プレッピーは、アイビー・ファッションという普遍的和製英語に比べると、「これがプレッピー」というイメージに直結しづらい。

ところがアメリカには『THE OFFICIAL PREPPY HANDBOOK』なるものが存在する。
なんてったって、オフィシャルですよ(!) これはファッション本に付けられたタイトルとしては、あまりに仰々しいものではないか。


それで、内容の方だけれど、「きっとこれは何かのパロディに違いない」と考えるしかないような事が書かれている。
つまり、パロディならば、それなりに楽しめたりするものだけれども、まさかそれは大マジメに書かれてはいないだろう、と思うしかない内容なのだ。

たとえば、引用すると、
「プレッピーはマミーとダディから気取った筆跡や古い家具の他に由緒ある血筋を受け継ぎます。(中略)マミーとダディは、子供たちが家族の枠からはみ出さないように、外部の世界があることを教えません」
そのようにして、プレッピーの家庭は、そこに「あっていいもの」と「あってはならないもの」に分類される。「競売で買った骨董品」はあってもいいが、「ルイ王朝風な家具」はあってはならない。「埃」はあってもいいが、「汚れ」はあってはならない。「パステルで描いた子供の肖像画」はあってもいいが、「子供の描いたパステル画」はあってはならない(そんな家、さむいっ)。

とにかく、よく分からない価値観ながら、独特の価値観によって育てられた子供が、ある種の特別なセンスを身に付けることは確かなようだ。


そして、名門大学へ進むための私立高校、いわゆるプレップ スクールに通う頃になると、彼らは制服でも、私服でも、独特のスタイルで、服を着こなすようになる。

たとえば上のイラスト ページは髪型こそ'80年代初頭の、トシちゃん聖子ちゃん的なのだけれど、カラフルなガムテープをデッキシューズにぐるぐる巻きにしてはいていたり、グログラン・リボンの時計バンドに付け替えた男物のタイメックスを女の子がはめていたり、と、いわゆるアイビー・トラッド的な格好を着崩してゆくスタイルが、いい雰囲気。

いや、今の目で見てもこれはカッコいいと思う。

それなりに良い物に囲まれて育ってきた彼らだからこそ、良い物をハズシて着る、匙加減もサマになっているというわけだ。



ところが、大人になるにしたがい、彼らは社交界でパーティ三昧の日々を送り、そこにも、「していいこと」と「してはいけないこと」、そして服装についても多くの記述がなされているが、もはや絵に描いたようなヤッピー(死語)的、B・E・エリス的な姿として、あまり目を惹かない。


そうして、死後、ある者はプレッピーの殿堂として称えられる。
ここにスコット・フィッツジェラルドが加えられていること、成り上がり者のギャツビーに限りないシンパシーを寄せ、上流階級の俗物たちとは、話すことさえ汚らわしいと書いた作家が、プレッピーの目指す姿だなどというのは、大いに矛盾していると、あえてここでは主張しないようにしよう。
そう言えば、プレッピーの愛読書ナンバーワンは『ライ麦畑でつかまえて』(J・D・サリンジャー) なのだそうだ(?!)


ともあれ、細部には、ギャグで書いてあるのか、まさか本気じゃないだろうな、と思わせるところが次々に出てくるのは、本書の欠点ではなく、むしろ魅力ではないかと思う。
だから、アメリカの上流階級を、ダイレクトに表現しているのかもしれないのだし、もしかしたら、既にそれは失われたものなのかもしれないのだ。
日本のアイビー ファッション 愛好家たちは、アメリカ人がどのように遊んでいるのか、憧れの念をもって眺めていた、というが、上の絵に描かれているように、フットボールの試合開始の数時間前、スタジアムの近くの野原にステーションワゴンを停め、そこで詰め物をした七面鳥の丸焼きを含む、盛大なガーデンパーティが行なわれるのなら、そんな本気なのか冗談なのか分からない遊びに、一度でいいから加わってみたいとも思う。





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