『1976年のアントニオ猪木』を生んだパキスタン取材
柳澤さんが手がけた想い入れのある、Number291号『女子プロレスの現在。』(左)、Number539/540『猪木の惑星。』(中央)、Number291号『最強の美学』(右)/(C)文藝春秋 |
「取材に行ったのは2001年の11月で、9月には同時多発テロが起こり、当時のパキスタンは、ビン・ラディンが潜伏していると言われていたのよ。だから、危ないパキスタンにライターを派遣して事故でもあったらマズイと思って、“僕が書くしかないか”って思い、僕と社員カメラマンの橋本篤くんの二人で行ったのね。
で、パキスタン大使館行ったり、ビザの取得とか色々あったんだけども、なんとか入国できることになったんですよ。でも、(猪木vsペールワンは)25年前のことでしょ?取材の取っ掛かりが分からない」
――そうなんです。何故、ここに辿り着いたのかが不思議で仕方ありませんでした。
「とにかく地球の歩き方をパラパラめくっていたら、パキスタンの旅行社なんて2社しかないのよ。で、古い方に電話して、“アクラム・ペールワンの一族の生き残りがいたら、取材したいんですけど”って言ったら、“猪木さんがパキスタンにいらした時はウチでアテンドしました”っていきなりビンゴ(笑)。
取材は、そんなところから始まったんだよね。で、いきなり行っても、取材先がなければ、行く意味がないので、彼らの本拠地で一族が生きているのか、取材先を探してもらったのよ。そしたら、アクラム・ペールワンの甥っ子のナッシルっていうのがいて、取材できると」
――こうして前例なき取材を経て、世に送り出された「あるペールワン一家の栄光と没落。」は、衝撃と呼ぶに相応しい内容でした。
「この号は、猪木さんも喜んでくれたみたいですよ。“わざわざパキスタンまで行ってくれたんだ?”って。
猪木さんにとっては、“プロレスを暴いた”っていう怒りは全然なくて、ケーフェイを自分から破ることはないけど、それを見て一生懸命調べてやってくれた人に対しては、“俺のこと好きなんだね”って思ってくれるみたい」
――そして、柳澤さんがNumber時代に蓄積した取材記録が、後の『1976年のアントニオ猪木』の基盤となってくる訳ですね。
「その後、会社を辞めて、“仕事どうしよう”って思ってた時に、これだけ材料あれば本を書けるかなって企画書を書いたんだけど、最初は76年の猪木の4試合について書くつもりだったのが、やっていると、どうしても、今に繋がってきちゃうんだよね」
――それは、現在のリアルファイトですよね?
「1976年の猪木さんと現在の総合格闘技は無関係なのよ。にもかかわらず、ファンタジーとしてはもの凄く繋がっている。だから、この本はファンタジーの物語なの。
実際にはリアルファイトの総合格闘技はUFCや、柔道、柔術に繋がっているんだけど、何でこんなことになっちゃったのかと言えば、どう考えても猪木の引力がものすごい強くて、空間が捻じ曲げられたということでしょう。
それほど、猪木は魅力的だったし、その根源は1976年の猪木でしかありえない」