当たり前だが戦争下の兵士に命の保証はない。明日死ぬかもしれない身の上のなかで、兵士たちはこっそりと女性の姿を軍服のなかにしのばせる。恋人、あるいは妻の写
真、誰もいない人は(いや、いる人も)ピンナップ・ガールの切り抜きを、いつも持ち歩くのだ。
人間、一人で死ぬしかないのだが、やはり一人で死にたくはない。昔の大戦下では厳しい規制のせいでヌード写
真を持ち歩く事は禁じられていた。
だがそれはあまり問題ではなかったかのもしれない。健康的な肉体美をもち、無邪気に微笑みかけてくるピンナップ・ガールたちは、兵士たちにとって、ある意味女神のような存在だったに違いなかったのだから。
ここで私はどうしてもある物語の事を考えてしまう。サリンジャーの有名な短編小説『エズミに捧ぐ』。ここでは主人公が、ノルマンディ上陸作戦に向かう直前の出来事が描かれる。
死ぬ確立が高い、生きて戻ったとしても肉体、あるいは精神に重大な支障をきたすといわれた特殊作戦に明日向かうという時に、主人公はエズミという少女と出会う。
エズミは爵位もある裕福な家庭に生まれながら、弟とともにみなしごの身の上だ。彼女は主人公との別
れ際に、自分のために小説を書いてほしい、と言う。「うんと汚辱的な」話を。
この(汚辱)という言葉が13歳の少女の口から出てきた時、背筋が凍りつくような思いがしたのを覚えている。それは作者が、繊細に糸をはりめぐらせた物語の中で、一点だけ、読者に直接語りかける事を許した部分だと思われるからだ。
つまり、汚辱を知っているのは、エズミではなくわれわれの方ではないか。
そして、一般大衆という、もはや汚辱を消し去る事のできない存在からの視線を受けて、無防備なまでの明るさをふりまくピンナップ・ガールの、愛らしく高潔な姿は、ファッションという形を借りて、現在求められている女性像そのものではないだろうか。
・・・男はやはり無傷では戻れなかった。神経が麻痺し全身が痙攣して必死に吐き気に耐えている。送られてきたクロノグラフもまた壊れて動かない。男がそこにはいないエズミに向かって語りかけるモノグラムで物語は終わる。汚辱を拭い去り復活する可能性はまだ残っている、と。
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