動物の調教と子どもの教育の違い
ただしやっかいなのは、叩いたりすると、瞬間的に効果があったように見えることがあるということです。肉体的痛みというのは即座に脳に伝わります。それを回避したいという本能が働きます。それをしつけに応用しようという理屈は完全に効果がないとはいえません。実際に動物の調教などでは多用されているのではないかと思います(イヌのトレーニングなどはプロに頼めば、今は叩いたりはしないと思いますが)。しかし、動物の調教と、人間の子どもに対する教育は違います。動物を調教するということは、その動物が野生の中で自分の力で生きていく力を奪うことで、人間に従わせる行為です。同じことを子どもにしてしまったら、子どもはいつまでも自立できません。鞭のような外的動機付けで成長させられた人は、鞭がなくなれば、自分で自分を成長させることができなくなります。自分の中に成長する力が備わっていないので、困難にぶつかると、また自分を痛めつけてくれる指導者を求めるようになります。「叩かれなければわからないことがある教」から脱退できなくなるのです。そして自分も他人を叩くようになります。一方、自ら望んで試行錯誤をして成長した経験の豊かな人は、どんな困難にぶつかっても自分の力でそれを乗り越えようとします。そしてあくまでも内的動機付けによってブレイクスルーを経験します。「人は変えられる(外的動機付け)のではなく、自ら変わる(内的動機付け)」ことを、身をもって知ります。だから人を叩くこともなくなります。
叩かれて育った子は、叩くことを覚える
叩かれて育った子は、叩くことを覚える
たしかに、普段は温厚で絶対に子どもを叩いたりすることのない父親が、よほどのことで正気を失い、子どもを叩いたとしたら、子どもに強烈な印象を与えることでしょう。「叩かなければわからないことがある」と唱える人は、そういう強烈な体験がある方々なのではないかと思います。でもそれは「人前で絶対に涙を見せたことがなかった気丈な母親が泣いた」とかいうのと同じことです。つまり叩く「必要」はありません。それに、何度も使える方法ではないということです。
そして何より恐ろしいのは、「叩かれなければわからないことがある」という信念に基づいて育てられた子は、うまく伝えられないことがあるときには「叩く」という手段を選べばいいと学んでしまうということです。それが国家単位で広まると、外交ではなく、戦争という手段で他国とコミュニケーションをとるようになるのだと思います。恐ろしいことです。