奴隷貿易の悲劇を今に伝える「ゴレ島」
ダカールの沖合いに浮かぶ小島「ゴレ島」。かつてアフリカ最大の奴隷貿易の中心地として、多くの過ちと悲劇が生み出された場所。その記憶をとどめるために、世界遺産に指定された
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この地に初めて到達したヨーロッパ人は、1444年にやって来たポルトガル人でした。以来、19世紀に至るまでオランダ、イギリス、フランスと引き継がれ、このゴレ島はアフリカ最大の奴隷貿易拠点として、歴史にその名を刻むことになりました。最盛期は18世紀頃、主な「輸出先」はアメリカ大陸で、ここから送られた奴隷の数は総計2000万人と言われています。
ただでさえ危険に満ちた当時の航海を、船倉の中に身動きもできない状態で隙間なく鎖に繋がれ、劣悪な環境の下で何千キロもの大西洋を渡った「奴隷船」の話は歴史の教科書でも知っての通りです。常識的に考えても無事新大陸にたどり着いた人はごく一部で、力尽きた人はその場で鮫の餌となりました。
今に残る、「奴隷の家」
1776年にオランダ人によって建てられ、当時「積み荷」達が収監されていた「奴隷の家(La Maison des Esclave)」が今でも残っています。この小さな建物は二階建てで、150人から200人ほどの奴隷が男、女、子供、少女などに分けられて、一階の各々の部屋に鎖で繋がれていました(二階は白人の部屋です)。ここで、奴隷たちは値付けされ、船会社の焼印を押され、旅立ちの日まで監禁されましたが、体重が規定(60kg以上)に満たない男子は、家畜のように飼料を食わされ、肥えさせられました。劣悪な環境の下で伝染病が蔓延しましたが、それでも病人やけが人は、多くが鮫の餌となりました。
多くのアフリカ人が収容された「奴隷の家」。そこにあったのは無限の苦しみと絶望のみ
そして“その時”が来ると、奴隷たちは裏口にある「戻らずの門」を通って係留された船に積み込まれていきました。奴隷たちにとっては脱出の最後の機会でしたので、多くの人が抵抗して海に飛び込んで行きましたが、ほとんどが番兵に撃ち殺されるか、またしても鮫の餌となるのが結末でした。
大西洋の大海原は死出の旅
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