P-MODELに参加したきっかけ
ガイド:中野テルヲさん、はじめまして。All Aboutテクノポップではいままで中野さんが在籍されたP-MODELのメンバーだった方々、三浦俊一さんのレーベル、ビートサーファーズに所属されている方々にインタヴューさせて頂く機会があったのですが、今回やっと(笑)、中野さんにインタヴューする運びとなり光栄です。せっかくなので、古い話からお聞かせください。
中野:
はい、やっとお会いできました(笑)。
ガイド:
P-MODELに参加されたのは1986年、アルバムでいうと『ONE PATTERN』からですが、どのようなきっかけで?
中野:
デモテープを平沢進さんにお渡しし聴いていただいたのがはじまりです(たしか1984年だったと思います)。それがきっかけで当時の事務所に出入りするようになり、楽器周りや機材車の運転をするスタッフとして関わっていました。いわゆるローディーというやつですね。『カルカドル』ツアー後のメンバーチェンジで自分に声がかかりました。その時には平沢さんからこんなことも言われたと記憶しています…「で、キーボードとベースに空きがあるんだけど、どっちがいい?」。パートはあまり問題ではなかったという、、、P-MODELはそんなバンドです(笑)。
ガイド:
参加された時はベーシストとしてですが、その後はどちらかというとシンセやスカイセンサーなどの実験的な楽器の人という印象が強いのですが。
中野:
P-MODELでは曲によってシンセベースも弾いていましたからその印象もあるのではないでしょうか。普通ならシーケンサーを使うような16分音符の細かいフレーズでも、ライブでは生ドラムに合わせるために手弾きをしていましたね。
短波ラジオを演奏に取り入れるようになったのはLONG VACATIONの頃からだったと思います。その当時はスカイセンサー以外にも八重洲無線のFRG-7という通信型受信機なども使っていました。