弱者に寄り添うプリンセスだったダイアナ妃

ウェディング
世紀の結婚といわれたロイヤルウェディング。このときのダイアナ妃は、まさにシンデレラで世界中の目が釘付けになりました
ダイアナ妃は1961年の7月1日にスペンサー伯の三女として生まれました。6歳のときに、両親が離婚。母親が家族の元を去ったことが、その後のダイアナの心に大きな影を落としたと言われています。ダイアナ妃が王室の誰よりも熱意を注いだ公務ががチャリティ活動でした。ダイアナが慈善事業に打ち込んだのは、心に傷を負った人に強く共感したためだと分析する人もいるほどです。

イギリスだけに限らず、ロイヤルファミリーはさまざまな慈善事業を公務として行っています。その多くは、名誉職や後援者として名を連ね、公式行事などに参加したり、寄付を呼びかけたりするいわば広告塔の役割です。ダイアナも、皇太子妃時代にはそういった肩書きを100近く持っていました。

ただ、HIVやガン患者、恵まれない子どもたちなど弱者に共感し、熱心にチャリティ活動に取り組む姿は、皇太子妃時代から王室の公務として行っているだけではないようだとも言われていました。そんな姿を多くのイギリス人が、弱者に寄り添う思いやりのあるプリンセスとして慕ったのです。
 

取り残された人たちに支持されたダイアナ妃

DIANA,PRINCESS OF WALES
美しいシンデレラは妻となり、母となり、そして自立した女性へと成長していきました
当時のイギリスは、福祉国家政策のスリム化をはかるサッチャリズムが席巻していた時期で、強いリーダーシップで規制緩和を進めるとともに、社会福祉や教育の予算が削られていきました。「ゆりかごから墓場まで」といわれた福祉国家の基盤が揺らぎ、格差が広がる中、取り残された人たちが、弱者の心に寄り添うダイアナ妃の姿に感銘を受け、支持したと言われています。

それは、労働者階級の女性であったり、移住労働者であったり、同性愛者であったりしました。現代の日本で流行っている言葉を使えば、負け組に追いやられた人たちでしょうか。弱者を思いやるダイアナ妃は、勝ち組を奨励するサッチャー元首相と対比される存在でもあったといえるでしょう。

同時に、幼いときから求めていた幸せな家庭をついに手にできなかったダイアナの姿は、離婚や家庭崩壊が増加していた当時のイギリスの女性たちの共感をも呼びました。ダイアナが自らの力で人生を切り開いていく姿に、どこか自分をオーバーラップさせていたとも言われます。
 

“国民の心の女王”をめざす決意

ダイアナ自身も、そういった国民の思いに応えるかのような行動をしています。離婚が決定的になった1995年の11月には、BBCテレビのインタビューでこんな発言をしました。

「これから、私は国民の心の女王を目指していきたいのです」

1996年7月12日、ダイアナはチャールズ皇太子との離婚に合意すると同時に、それまでの肩書きや後援者の大半を辞任しました。8月28日の正式離婚後は、最も関心の高かったエイズ基金、ガン撲滅、そして地雷廃絶などに力を注ぐことを表明し、精力的に活動に取り組んだのです。
 

地雷廃絶運動の旗手として活躍したダイアナ

アンゴラの子どもたち
地雷によって足の一部を失ったアンゴラ子どもたち。地雷の被害を受けるのは、一般の市民で、特に子どもが多いといわれます。©JCBL
チャールズ皇太子との離婚後、ダイアナが死の直前まで熱心に活動し、心を傾けていたのが地雷廃絶問題です。

敵の戦車を爆破させ、兵士にケガを負わせることを目的に開発された地雷は、大きく戦車用の対戦車地雷と人間用の対人地雷に分けられます。

・小さく軽く、1つあたり3ドルから30ドルの安価で製造できること
・相手が死なない程度の大けがを負わせること
・通りかかった人を無差別に傷つけること
・腐食しないプラスチック製で、金属探知器では探せないこと
・撤去しない限り、半永久的に地中に残っていくこと

このような理由から、悪魔の兵器、あるいは貧者の兵器とも呼ばれます。

地雷の使用を制限する国際的な条約として1983年に特定通常兵器使用禁止条約(CCW)が発効されていますが、これは、自動的に爆発する自滅装置付きの地雷や、金属探知器が使えないプラスチック製の対人地雷の使用は禁止していませんでした。そもそも地雷が存在することが問題であるという認識で作られておらず、批准国も少ないことから、効力に疑問のある条約でした。
 

地雷の全面禁止を目指す世界的な取り組み

チョウチョウ型
手のひらに乗ってしまうチョウチョウ型といわれる地雷(写真は模型です)。「何だろう?」と子どもたちが手にして被害に遭うケースは後を絶ちません
1990年代には、地雷問題に取り組むNGOを中心に世界共通の課題として全面禁止への動きが高まります。1992年には、地雷除去や被害者支援をしているアメリカやヨーロッパの6つのNGOにより「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」が発足、地雷全面禁止に積極的な国との間で、CCWに代わる新しい条約を作る動きが活発になっていきます。

地雷の全面禁止は軍事問題であり、国家間で取り組むべきものだ。NGOの手に負えるものではない、という懸念の声もありましたが、ICBLは一般の人々を巻き込む地雷は人道問題であることを訴え、地雷なき地球を目指して運動を起こしていったのです。

そういった中で、ダイアナ妃がアンゴラやボスニア・ヘルツェゴビナの地雷原を視察し、被害を受けた人たちを励ましたことは、世界の人びとの関心を地雷に向けるために大きな役割を果たしました。防御マスクをつけ、危険な地雷原を歩くダイアナの姿は世界中に配信され、それまでまったく地雷を知らなかった人の目をも引きつけたのです。
 

地雷被害者に勇気と希望を与えたダイアナ妃

地雷撤去
地雷撤去にあたる専門家にとっても作業は命がけ。そんな場所に売名行為が目的でいけるはずはありません©JCBL
ダイアナの姿を売名行為だと批判する人もいたそうです。そもそも地雷は軍事問題でもあるため、王室関係者による政治的な介入とも受け取られかねず、その是非も指摘されていました。

しかし、危険な地雷原に自ら入っていく。そんなことを、売名のためなんかでできるはずはありません。ダイアナも、地雷を軍事問題ではなく人道問題と受け取り、被害者へ希望と勇気を与え、世界に地雷の悲惨さを訴えることを自身の使命と考えていました。

地雷廃絶を訴える絵本「地雷ではなく花をください」を1996年に発行した日本のNGO、難民を助ける会がダイアナ妃に協力を呼びかける手紙を送ったところ、数日後に「その本をぜひ読みたい。共にがんばりましょう」という返事が届きました。

また、1998年1月に日本で予定されていた東京地雷会議の出席とチャリティウォークへの参加の意向も示していました。こういったエピソードからも、ダイアナ妃が心から地雷廃絶を願っていたことが伺えます。※1)

歴史に「もし、~したら」を思うのは無意味なことですが、それでも「もし、あの事故がなかったら」私たちは東京で地雷廃絶を訴えるダイアナ元妃の姿を見ることができたのかもしれない。健在だったら、46歳になっているはずの今、世界平和のためにどんな貢献をしたのだろう。そう思わずにはいられません。
※1)1997年9月1日付け朝日新聞朝刊を参照しています
 

対人地雷全面禁止条約の調印

9月1日 対人地雷全面禁止条約の起草会議が開催
9月18日 オタワ条約が締結され、会議は閉幕
10月 ICBLとコーディネーターにノーベル平和賞が贈られることが決定
12月 オタワ条約:対人地雷全面禁止条約に122カ国が調印
オタワ条約の調印式
122ヶ国が調印したオタワ条約の調印式。日本からは当時の小渕外務大臣が出席しました。©JCBL
  ダイアナが亡くなった翌日の9月1日は、奇しくも、対人地雷全面禁止条約の起草会議開催日でした。政府が地雷廃絶に熱心だったカナダのオタワを舞台に開催された会議は、ダイアナへの黙祷を捧げることから始まりました。

会議が行われる中、ダイアナ妃死去のニュースと生前の功績がクローズアップされるにつれ、地雷廃絶への世界の世論が急速に高まっていきました。それにおされるかのように、対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)がまとまり、会議は18日に閉幕しました。

翌10月には、ICBLとコーディネーターのジョディ・ウィリアムズ氏に1997年のノーベル平和賞が贈られることが決定されます。そして、12月3~4日には、122ヶ国が正式に参加し(非公式参加37カ国)、対人地雷全面禁止条約に調印しました。

日本は当初、地雷は軍事上必要な兵器だと主張し、全面禁止には消極的でしたが、調印式の1週間前の11月27日に条約署名式に正式参加することを表明します。これは当時、外務大臣だった小渕元首相の英断と言われ、自らオタワに訪れ、調印を行いました。なぜ突然、参加を表明したか、その背後にどんな理由があったかはわかりません。小渕元首相が急逝してしまった今となっては、確認するすべもありません。
 

市民の条約作りへの気運を高めたダイアナ

ちょうちょキャンペーン
地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)では、条約に批准していない国にオタワ条約早期加入を訴えるメッセージの書かれたちょうちょ型のカードを届けるちょうちょキャンペーンを行い、多くの人の参加を募っています
ダイアナの死去から、10年。オタワ条約も同じく10年になります。条約批准国は増え続け、現在、153ヶ国になりました。2007年の時点では、まだ42ヶ国が条約へ未加入です。それらの国々では地雷の製造や使用が続いてはいるものの、条約を批准していない国でも国際社会の批判が起こるため安易に地雷を使用できない状況を作ることに成功しました。

地雷なき地球を目指した市民が条約作りに参加したことから、オタワ条約は、市民の作った条約とも呼ばれています。その実現には、地雷廃絶運動の気運を盛り上げ、被害者をはじめとする多くの人々に希望と勇気を与えたダイアナ妃の存在をなくしては語れません。
 

慈善活動に取り組む一方、スキャンダルにも彩られた

ダイアナ妃の真実
自らの不倫をテレビカメラの前で告白するといったスキャンダラスな行動もダイアナ元妃の一面でした。
イギリス人にとってのダイアナは、スーパーモデルとマザー・テレサの両方を兼ね備えた存在だと評した人がいます。確かに、バツグンのスタイルで、最先端のファッションを着こなしたダイアナ元妃はスーパーモデルのようです。どこへ行くのにもフラッシュを浴び、どんな人よりも輝き続けたスターでもありました。

スーパーモデルのような一面とマザー・テレサのような一面。相反するその行動ぶりは、1997年の1月から、亡くなる8月までの足跡を振り返っても見てとれます。
 
1月13日 アンゴラを訪問。地雷原に立ち、対人地雷の全面禁止を訴える
3月9日 ウィリアム王子の堅信式に出席
6月18日 NYブロンクスの修道院施設にマザー・テレサを訪ねる
7月15日 南仏でエジプト人富豪ドディ・アルファイド氏と出会う
8月7日 アルファイド氏と地中海でバカンスを過ごしたと報道される
8月8日 ボスニア・ヘルツェゴビナを訪問。地雷廃絶を訴える
8月22日 地中海でアルファイド氏と休暇を過ごす
8月30日 フランス・パリのリッツホテルで、アルファイド氏と夕食
8月31日 セーヌ川沿いの自動車道路内で起きた衝突事故で死去

ダイアナと結婚する前のチャールズ皇太子は、環境問題や労働問題にも関心の高い思慮深い人としてインテリ層からの支持が高かったとのだとか。それはたぶん王室全体のイメージだったのでしょう。でも、ダイアナ妃はある意味俗っぽく、常にスキャンダラスな話題にも彩られ、インテリとは少々違う世界の方。だからこそ多くの人に支持をされ、そのことが、正統的な「王室」のイメージをも大きく変えてしまいました。
 

没後なお愛されるダイアナ

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ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)1961年7月1日生まれ、1997年8月31日に交通事故により亡くなる
ダイアナ(プリンセス・オブ・ウェールズ)元英皇太子妃が1997年の8月31日に衝撃的な事故でこの世を去って、ちょうど10年。健在ならば46歳の誕生日にあたる2007年の7月1日に、ロンドンでは追悼コンサートが開かれ、ダイアナが今もなお多くの人に愛され続けていることを改めて知らせるものとなりました。

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