成河(ソンハ)東京都出身。大学時代より演劇を始める。その後北区つかこうへい劇団などを経て舞台を中心に活動。第63回文化庁芸術祭演劇部門新人賞、第18回読売演劇大賞優秀男優賞受賞。『グランドホテル』、『エリザベート』、『わたしは真悟』等の舞台、映画『美女と野獣』ルミエール役の吹き替え等幅広く活躍している。(C)Marino Matsushima

成河(そんは)東京都出身。大学時代より演劇を始める。その後、北区つかこうへい劇団などを経て舞台を中心に活動。第63回文化庁芸術祭演劇部門新人賞、第18回読売演劇大賞優秀男優賞受賞。『グランドホテル』、『エリザベート』、『わたしは真悟』等の舞台、映画『美女と野獣』ルミエール役の吹き替え等幅広く活躍している。(C)Marino Matsushima


献身的な若者から極悪非道の巨悪まで、変化自在に様々な役柄を演じる演劇界の若きホープ、成河さん。筆者にとっては2004年、ストレート・プレイ『エンジェルス・イン・アメリカ』の天使役で凄まじい存在感を放って以来の“気になる新星”ですが、近年はミュージカルにも進出、ミュージカル界に新たな風を吹き込んでいます。
 
そんな彼が次に選んだのが二人きりのミュージカル『スリル・ミー』。1924年に実際に起こった殺人事件をモチーフに、34年後の“私”の告白という形で舞台は展開。事件はなぜ起こったのか、そして“私”と“彼”の間には何があったのかが、ミステリアスに再現されてゆきます。
 
ステファン・ドルギノフ作詞・作曲で03年にアメリカで初演、日本では11年から栗山民也さんの演出で上演が重ねられている本作のどこに、成河さんは惹かれ、どう対峙しようとしているのか。これまでの歩みも含め、たっぷりと語っていただきました。
 

“翻訳ミュージカル”の可能性を追究したい

――『スリル・ミー』という作品は以前からご存知でしたか?
 
「確か2013年と14年の公演を観ました。はじめはどんな作品か全然知らずに行ったんだけど、ちらしのイメージで勝手に“かっこいい男の子たちの素敵なドラマ”というイメージを抱いていたら、それがいい意味で裏切られて。こんなに陰惨な話で観客に問いかけてくるもののある作品なんだなと思いました」
 
――その作品に出演オファーがあった時に、どこに一番魅力を感じましたか?
 
「ピアノ一本と俳優二人でやる作品ということにも興味があったし、日本でやる一般的なミュージカルと比べて、歌と芝居のつなぎ目が自然になりうる作品だなと思いました。僕は個人的に、日本語で上演される音楽劇やミュージカルってまだ開発途上にあると思っているので、シームレスに見えるこの作品を実際にやってみるとどういう感じになるのか、興味があったんです」
 
――以前からミュージカルについて、いろいろな思いがおありだったのですか?
 
「もともとミュージカルは好きだったけれど、知れば知るほど、翻訳もののミュージカルをやることがいかに難しいかがわかってきたんです。これは僕だけが思っていることではなくて、作り手の多くは意識しているし、ミュージカル好きのお客様の中にもご存知の方は多いんじゃないかな。
 
英語のミュージカルを日本語に翻訳すると、三分の一しか情報量が入らず、残りの三分の二は何で補完するかということになります。限られた時間の中で、それをいかに自覚し、対処してゆくか。半年ぐらい稽古期間があればいいんですが、実際のところ、それは“わりと不可能”(笑)。そんななかで、このコンパクトな二人芝居を通して、(演出の)栗山さんともども翻訳劇の可能性を考えられるし、僕自身、どうしても日本語でやることに興味があるので、どこまでできるかやってみたいんです」
 

“残された三分の二”を表現する方法

――本作も翻訳劇なので、どうしても“三分の二”の問題は発生しますよね。それはどのように補完しようとお考えですか?
 
「いろんな選択肢があると思います。たたずまいや間合い一つで補完できるかもしれないし、頭から最後までどういう筋を人物に通すかで補われることでもあるかと思う。言葉にとらわれすぎても失敗するのかなという気はしますね。
 
翻訳もののミュージカルって、苦手な人はすごく苦手だと思うのですが、そういう演目って“三分の一の情報”だけで作ろうとしていることが多い。かえって“歌だけにして”と思われたりしてしまうんです。そうではなくて、きちんとお芝居として見せるということをやるべきなんですよね。僕はこのことを悲観しているわけではなくて、むしろどんなやり方に可能性があるだろうと、挑み甲斐を感じています。
 
ただ今後、日本の英語教育の進展具合によっては、20年、30年もしたら当たり前のように英語上演が増えてくるかもしれませんね。観客が英語を理解できるなら、日本語でやる必要はないわけですから」
 
――それは斬新な発想ですね。
 
「斬新じゃないです! そう思っているけど言わないだけの人はたくさんいますよ。稽古期間、準備時間についても、もっと費やしたいけど、予算などさまざまな条件的に無理なんだろうなと思っている人は少なくないです。そんな中で、どれだけみんなを議論に巻き込んでいけるか。日本語に訳した時に、情報が三分の一だけどどう補完しようかと議論する稽古場を、ミュージカルについても作れるといいなといつも思っています」
 
――それはここ数年、ミュージカルや音楽劇を経験される中で気づかれたことですか?
 
「そうですね。僕が初めてミュージカルに出たのが6年前の31歳の時、そして2年前の『グランドホテル』『エリザベート』を経験して、創作環境としてはまだまだ議論の余地があると思ったんです」
 
――議論するには、よほどいい作品であってこそその意味も生まれると思いますが、成河さんが今回、『スリル・ミー』への出演を決めたということは、それだけの価値を認めたということなのですね。
 
「もちろんです。その作品がどういう作品であるのか、“なぜ”上演しようとしているのかというところから議論することに、俳優は参加するべきではないような風潮があるけれど、僕はそこに主体的でありたいし、どれだけそこで自分が意見を言えたかというのが成果だと思っています。
 
本作については、なぜこういう暴力的なドラマを見せる必要があるのか、でもそれを考えさせることが貴重なんだと、客席で観たときに思いました。“きれいだな、かっこいいな”ではなく、なぜこういう、ネガティブなドラマを見せつけるのか。ひょっとすると、それが人間というものだというのが作り手側のメッセージになるのかもしれませんが、稽古前の現時点ではまだわかりません。暴力的で、残酷だけど、価値のある物語。その価値とは何か、探っていきたいですね」
 

“特別な関係”にとらわれずに、芯にあるものをとらえたい

――本作の根底にあるものとしては、“純愛”と思われている方が多いかもしれませんが、成河さんはどうとらえていらっしゃいますか?
 
「それは要素の一つであって、そこだけに目が行ってしまうと、実はあまり面白くないかもしれません。“私”と“彼”がホモセクシャルとして描かれている意味はもちろんあると思いますが、“特別な関係の特別な恋愛”になってしまうと、観る人からは縁遠いものになって、本作の暴力性が額縁に入れられてしまうというか、安全なものになってしまうと思うんですよ。いつ何時でも、誰にでも起こりえる題材としてとらえないと、本作の芯はとらえられないと思うんですよね。
 
そういう意味で、僕はこの作品には、もっと男性が来てほしいと思っています。出演にあたって、女性向けのファンタジックできれいなお芝居と思われかねない宣伝ビジュアルではないものにしていただけますか、とお願いもしました。あと、本作に限らずですが、劇場にもっと男性に来てもらうために男性同伴割引をしませんか?と提案したりもしています(笑)」
 
――男性同伴割引、いいですね。本作の根底にあるものについてですが、例えば、こういう解釈はいかがでしょうか……(と、筆者・松島の意見を述べましたが、ネタバレに関わりますので内容は略します)。
 
「なるほどね。正直、作品がどういうものであってどこが落としどころかというのは、稽古が始まってからいろんな選択肢が出てくると思います。それを僕が“愛”と名付けるのか、“エゴ”と名付けるのか、それとは違うものとするのか。どれも間違いではないと思うけど、1920年代に起こった事件を描いているということもあって、今の僕たちの生活から遠のくような選択肢はとりたくないです。僕らにとって“わかる”ものでありたい」
 

観客と違和感を共有する、その交流が“演劇”

――テクニカルな話になりますが、本作にはどんでん返しもありますが、そういう作品では、演技をされていてどの段階からその要素を匂わせるのですか?
 
「それは観ているお客さま次第です。(どういう展開になるか)ご存知の方がいたらどうするのか。困っています(笑)。僕はよく思うんですが、映像と違って舞台はお客様がいないと何も始まらない。常にお客様に寄り添わないといけないし、時には裏切って突き放したり、また戻ってこないといけない。お客様がどうご覧になっているかが大事です。
 
だから僕は、観客席次第ということを意識します。例えば本作の展開を、お客様が全員ご存知だったとするじゃないですか。そういうときは何か新たなものを作って裏切らなくちゃいけない。一つの形を作って、“絶対的にこれです”というのは、僕は舞台にはありえないと思うんです。画家や音楽家といった独立した芸術家ならありうるだろうけれど、僕らの立場としては、お客様と一緒になって違和感を共有する、そのお客様との交流を演劇というんだろうと思うんですね。
 
例えばもうストーリーを知っている方がご覧になっていて、僕らがほんのひと呼吸をずらすことで、“あれ、もしかして私が知っているのとは違うラストになるのかもしれない”と思っていただけるようになったら面白い。そういうことができたら一番の喜びです」
 

演出家、共演者への信頼感

――栗山民也さん演出はすでに何度か体験されていますね。
『スリル・ミー』

『スリル・ミー』

「三度ほどあります。栗山さんは、演出が速いです。役者が慣れたり安心したりしないよう、稽古も短いんですよ。あまり繰り返さず、ぱっとやってノート(指摘)を言って終わってしまう方です。同時に演出家として、例えば俳優が立っているだけでも舞台を創ってしまえるような技量のある方なので、俳優がうかうかしているとあっという間に、何も知らないところで舞台が作られてしまうという怖さがあります」
 
――いろんな球を投げて様子を見ながらという暇は無く?
 
「受け身でいるとそうなってしまいます。だから栗山さんが“勘弁してくれよ”というくらいの暴投をこちらからしないと(笑)。でも、それが楽しいし、どんな暴投もよく見てくださる方です」
 
――では今回は信頼を置いて……。
 
「迷惑をかけようかなと思っています(笑)」
 
――“彼”役の福士誠治さんとは初共演ですか?
 
「はい。好きという印象があるので、話しながら、答えを急がないで作っていけたらと思いますね。栗山さんはこちらが何も言わないとどんどん“これで行きましょう”と決めていかれるので、福士さんには“待ってくださいと言いましょうね”と言い合っています。栗山さんも、こちらがそういうと“じゃあやってみろ”と喜んで待って下さる方なので」
 
――現時点で、どんな舞台になるといいなと思っていらっしゃいますか?
 
「どんな作品でも額縁に入った状態だとやる価値がないので、額縁から飛び出すほどの、暴力的な舞台になるといいなと思っています。この作品を何度も観て、奥の奥まで知り尽くしているファンもいらっしゃると思うけれど、この暴力的な舞台の何がそれほど人をひきつけるんだろう、と考えていただけるようなものになればと思います」
 
――成河さん、これまでもそういう作品を選んでいらっしゃいませんか?『ウィー・トーマス』(マーティン・マクドナー作の戯曲)ですとか。
 
「そうですね。こうかもしれないと思っていた世界が揺らされたり壊されたり、というのが僕の客席での原体験。“お約束のエンタテインメント”より、そういう演劇が好みですね。僕のようなタイプの人を客席から追い出したくない、という思いが常にあります。常に開かれた演劇をやっていきたい。『スリル・ミー』もそんな方にもぜひご覧いただきたいと思っているけど、濃密な小空間での上演ということで、おかげさまでもう完売してしまっていると聞きました。でも、追加公演があるんですよね」
 
――毎公演、当日売りがあるようですし、追加発売もあるようです。こうした機会を通して、さらに幅広い方々にご覧いただけるといいですね。

*次頁では成河さんの”これまで”や身体表現、言葉へのこだわりについて、大作ミュージカル体験や”今後”まで、多岐にわたって語っていただいています!

 様々な演劇が百花繚乱だった学生時代

成河さん。(C)Marino Matsushima

成河さん。(C)Marino Matsushima

――さて、プロフィールについても少しうかがわせてください。成河さんが演劇の世界に入ったきっかけは?
 
「はじめは音楽、それもロックだったんですよ。高校の頃に同級生と洋楽のコピーバンドをやっていたけど、もの足りなさを感じていて、そんなときに演劇好きの親友が清水邦夫の戯曲『署名人』を持ってきてくれて、文化祭で一緒にやったのがきっかけです。その親友が文学、演劇が好きだったんです。
 
大学時代に追っかけていたのは、野田秀樹さんです。こむずかしいものをぶったぎった中にある歴史観の表現が面白かったし、めちゃくちゃななかにも奥行きを感じるんですよね。あとはク・ナウカにも惹かれていました。
 
日本の現代演劇史って、見回してみると先輩たちが喧嘩しているんですよね。“演劇はそうじゃない”“俺たちがやってることが正しいんだ”と言い合って、どれが正道ということではない。新劇があってアングラがあって野田秀樹さんがあって、その後平田オリザさんの“静かな演劇”というものが生まれてきて。個々を見ればとても同じジャンルの芸能とは呼びづらい。僕らの世代はそういう多岐にわたる演劇に影響を受けていて、良くも悪くも、いろんな演劇を屋台でつまみ食いしてるような状態でした
 
それは観る分には面白いけれど、役者を志す者にとっては困ることなんです。それぞれ、技術が違いすぎて、先輩たちに聴いても、あれもこれもやっている人なんていらっしゃらない。断絶が甚だしい。そしてそれに対して疑問の声さえ起らない。自分はあれもこれも好きだけど、そのどちらもやるという道は無いんだ、と思っていました。その後、つかこうへいさんの劇団に行きました。けれども“断絶”に対する疑問は持ち続け、劇団も出て、今はあちこちに手を広げ、演劇の中心にあるものを探し続けています。
 
――模索の中で、ご自身の演劇が見つかってゆきそうですね。
 
「見つかるといいですね、80歳ぐらいで(笑)。今は何なんだろうなと思うけど、わからない。それを知りたくてやってるわけですけれどね」
 

身体表現の“極意”

――『わたしは真悟』では台詞のみならず、フィジカルな表現に目を見張りました。以前からなさっていたのですか?
『わたしは真悟』

『わたしは真悟』


「僕はダンスは特に習ってきませんでした。つかさんの劇団にいたときに少しやったくらいです。運動音痴でフィジカルは苦手だと思っていたんだけど、ある時、舞台での体の見え方というのを、野田秀樹さんに教わったんです。例えばウサイン・ボルトが(一人で)舞台の上手(右)から下手(左)までばっと横切っても、それほど早くは見えない。それよりも、ゆっくり歩いている人の横をバッと抜き去って走るほうが、お客さんには早く見える。あるいは、能役者がゆーっくり歩いて“宇宙をマッハ5で進んでいます”と言われると早く思える。演劇での早い遅い、高い低いというのは、実は認識の“差”の問題なんだよ、即物的な話じゃないんだよ、と野田さんが教えてくださったんです。
『100万回生きたねこ』

『100万回生きたねこ』

この話に衝撃を受けて、それ以来、認識の“差”を使って身体表現をするということが好きになりました。もちろん、決して得意というわけではないけど。その後『100万回生きたねこ』で演出・振付をされたインバル・ピントさんが、様式的な動きではなく、その人個人の個性だったり、体の持っている音色があればそれをダンスとみなすという人で、いかにウソなく体を使うかということを一緒に訓練してくれたんです。その流れで、『100万回生きたねこ』のときに培ったものを『わたしは真悟』で応用し、煮詰めてやらせてもらったという感じです」
 

言葉へのこだわり

――『黒蜥蜴』では改めて、成河さんの台詞術に刮目しました。成河さんの演じた雨宮はそれほど大きなお役というわけではないけれど、終盤の長台詞での言葉のとらえ方、発し方が素晴らしく、一瞬にして劇空間の温度が上がった印象があります。言葉というものにはやはり強いこだわりがおありでしょうか。
 
「言葉にこだわらなかったら役者をやらないですよね。言葉は全てだと思っていますよ。なぜこの言葉がここにあるのか。どの言葉を一番のスピードで発するのか……。それを教えてくれたのは(ロバート・アラン・)アッカーマンです。まず本読みが始まると、本文の1ページ目に入る前に、表紙のタイトルだけで30分止まるんです。“何でこのタイトルなんだろうね”と。一日に4ページくらいしか進まない(笑)。
 
そういう経験があるので、翻訳劇だと“どの言葉に訳すのか”ということにもすごくこだわりたいと感じます。1年かけてでも準備する価値はあると思います、言葉って。日本語には特有の面白さと難しさがあって、主語一つをとっても、英語だと全部“I”だけど、日本語だと“僕”“俺”“僕ちん”“おいら”といろいろある。その中で一つを選びだしただけで、役の輪郭ができちゃうじゃないですか。“本当にこれ、《僕》でいいんでしょうか?“とみんなで吟味するところからやらないとダメなんじゃないかな、と思っています」
 

大作ミュージカル『エリザベート』の手ごたえ

『エリザベート』写真提供:東宝演劇部

『エリザベート』写真提供:東宝演劇部


――ミュージカル・ファンとしては『エリザベート』についてもぜひお尋ねしたいのですが、成河さんのルキーニを観て、本作はルキーニの回顧なのだと、作品の輪郭がわかった方も多いと思います。ご自身の手ごたえはいかがでしたでしょうか?
 
「そう感じていただけるということだけを信じてやっていました。実際のところ、ご覧になった方が全員そう感じていただけたかどうかはわからない。けれど少なくとも僕は、ルキーニという人物は輪郭であって、つなぎの役目ではないと思っていました。そうでないと、『エリザベート』という作品自体、完全なファンタジーになってしまう。そうではなくて歴史劇なのだということを、ルキーニが示さなくてはならない。
 
もちろん、既にご覧になったことがあって、作品内容をご存知の方なら問題ありませんが、問題は何も知らずにご覧になった方が、ファンタジーだったりゲームの世界のように感じてしまったら、この作品を愛する者として、あまりに悔しいじゃないですか。
 
ミュージカルって、古典でもなんでもなく、ここ数十年の“前衛劇”なんです。前に進み続けないといけない。そのためにできることをやりたい、と思いましたね」
 
――また出演してみたい作品ですか?
 
「前回、『エリザベート』に携われたことで、いろんな思考が生まれたんですよ。ミュージカル産業/市場/稽古場を知ることができたし、参加できてものすごく感謝しています。同時に、前回は新参者としてぽーんと飛び込んでいったことで評価してもらえた部分があるので、もしまた機会があれば、もう一歩地に足をつけてやってみたいと思いますね。
 
最初の一発は、思い切ったことをやればみんなびっくりしてくれるけれど、それが二度目以降も通じるのか。もう少し中身が問われたり、あなたの足はどの地面を踏んでるのかと見透かされると思います。一度やって面白がってもらえたからいいや、あれで終わりというのはちょっと違うかな、と思っています」
 
――では最後に。どんな表現者を目指していますか?
 
「……それを考え続ける表現者でありたい。果たして自分は誠実な表現者なのか。死ぬまで悩んでいける表現者でありたいです」
 
*****
稽古に入ってしまえば作品のことしか考えないけれど、稽古期間前には演劇界のことをいろいろと考えてしまうという成河さん。今回も率直に、ミュージカルを含む日本の演劇について語ってくれました。
 
そしてインタビューの最後に、ヴィジョンをお尋ねしたときのこと。質問をしてから“それを考え続ける表現者でありたい”という言葉が発せられるまでには、実に43秒間の静寂がありました。唇に指をあて、真剣に思索する成河さん。決して“空白”などではない、密度の濃いひととき……。『スリル・ミー』を筆頭に、これからもこの真摯な表現者が参加する舞台は一つも見逃せない、と改めて感じられたインタビューでした。
 
*公演情報*『スリル・ミー』12月14日~2019年1月14日=東京芸術劇場シアターウエスト、1月19~20日=サンケイホールブリーゼ、1月25日=芸術創造センター。なお、東京(12/24、1/4、7、11)・大阪(1/19、20)では追加公演が決定。東京公演は10月20日よりホリプロオンラインチケットにて抽選先行受付 公式HP

*次頁で『スリル・ミー』観劇レポートをお届けします!

『スリル・ミー』(2018)観劇レポート:密室の中で描かれる、人間の心という謎

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

闇を引き裂くように、ピアノ(朴勝哲さん)が狂おしい旋律を奏で始める。音もなく、客席通路を通って舞台へと上がる、一人の男(成河さん)。(ちょうどこの通路脇の席にいた筆者は、完全に気配のないところからぬっと現れたこの人影に震撼)
 
「座ってかまいませんか」と生気無く問いながら腰掛けたこの男=「私」に、仮釈放審理官が尋問をする形で、物語は始まります。

34年前、犯罪史上に残る殺人事件の罪に問われた「私」は、5度目の仮釈放審理にあたり、「まだあなたが話していない、本当の動機、隠された真実」を言うよう求められる。おもむろに口を開き、つぶやくように歌い始める「私」。「動機と言えばそれは 彼とともに生きていくため」……。
『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

ここで「私」は囚人服を脱ぎ、舞台はそのまま34年前の出来事へとフラッシュバック。

裕福な家庭に育った19歳の「私」は、幼馴染の「彼」に特別な感情を抱くが、人の心をもてあそぶ「彼」に忍耐を強いられるばかり。やがて互いの義務を文書化した「契約書」に血の滴でサインすると、彼のスリルのため陰惨な殺人に手を貸してしまいます。

主従にも似た関係性の2人ですが、犯行後、「私」が犯行現場に眼鏡を落としてしまったことがきっかけで、「彼」の絶対的な自信は少しずつ揺らいでゆく。遂に逮捕された二人に判決が下り、護送車の中で「私」は「彼」にあることを語る。真実に辿り着いた審理官たちが「私」に下した決定は……。
『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

2組の「私」×「彼」役で行われた今回の公演。栗山民也さん演出による、一言の台詞もおろそかにしない緻密な芝居運びは共通していますが、その風合いは見事なまでに異なり、成河さんの「私」は決して純情一辺倒というわけではなく、実はずっと以前から底知れぬ“闇”を抱えてきた風情。「彼」に振り回される日々の描写でも傷つくばかりではなく、“その感情の背後”に何かがある、と感じさせます。

そして前述の護送車の中で、「彼」にあることを話して前のめりになり、「彼」が思わずのけぞる構図。2人の関係性に劇的な変化が起こる瞬間が、背筋の凍るような静けさの中で描かれています。
『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

成河さんの「私」に対して「彼」を演じたのは、福士誠治さん。優秀にして残酷な人物をクールに、ニヒルに造型しているだけに、後半、監獄の中で“怖いんだ”と弱さを見せるくだりでの、これまで繕ってきたものをすべてかなぐり捨て、醜悪な、しかし人間くさいともいえる姿が印象的です。
『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

もう1組は松下洸平さん、柿澤勇人さんコンビ。2011年の初演以来、4度目の共演ということもあってか、互いの全てを知りつくした“幼馴染”感が滲み出、その上で「私」を突き放しては引き寄せる「彼」と、その「彼」に付き合わずにはいられない「私」の関係性に、何重にも捻じれ、歪んだ愛情(のようなもの)が感じられます。

どこまでも「彼」を渇望する「私」と、悪魔的な魅力を放ちつつもその手の届かない存在であろうとする(「私」の記憶の中の)「彼」。寄り添うことのできない関係性の悲劇を、お二人がエネルギッシュに演じています。
『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

『スリル・ミー』撮影:渡部孝弘

2組を見比べ、それぞれに異なる角度から物語を考えてみてもなお残るのが、人間の心という謎。審理官は真実を得たといいますが、「私」の心の奥底を本当に見たのでしょうか。冷え冷えとした感触の中で、いつまでも余韻の残る舞台です。
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