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WWEと契約した中邑真輔

日本市場を重要視しているWWE

年頭の1月4日の東京ドームでAJスタイルズの挑戦を退けてインターコンチネンタル王座を防衛し、今年の抱負について「世界ですね。自分の思う、さらなる高みのステージを目指していきていきたいと思っています。ありがとうございました」とコメントした中邑真輔のWWE入りの噂が海の向こうから聞こえていたのは翌1月5日のことでした。

世界最大のプロレス組織WWEは世界各国の有望なレスラーをスカウトしており、近年では特に日本マット界に注目。2014年夏にはプロレスリング・ノアのトップだったKENTA、昨年秋には女子プロの華名がスカウトされて契約、メジャー・デビューを果たしています。中邑真輔もかねがねWWE上層部が目をつけていた選手で、WWE入りの噂が広まった1月5日はインターネットによるWWE動画配信サービスのWWEネットワークが日本でも視聴できるようになった日。まさに絶妙なタイミングだったわけです。それだけWWEは日本というマーケットを重視しているのです。


新日本混迷期にデビューした「選ばれし神の子」

青山学院大学レスリング部主将で、総合格闘技の和術慧舟會でも練習していた中邑が新日本プロレスでデビューしたのは02年8月。当時の新日本は総合格闘技路線と純プロレス路線の狭間で揺れ動いていた混迷期で、中邑は総合格闘技とプロレスの両方に通用する選手として期待され、デビュー戦が終わるとアントニオ猪木の命で米国ロサンゼルスの道場に送られました。当時の新日本にとって中邑は将来を託せる「選ばれし神の子」だったのです。

中邑は無我夢中で総合格闘技、プロレスの両方で頑張りました。その過程で格闘家なのか、プロレスラーなのか中途半端に見られた時期もありましたが、09年夏に膝蹴りのボマイェを必殺技にするようになったあたりから独自のスタイルを身に付け始めました。それまでは総合格闘技的なサブミッションからプロレスの大技まで何でもやっていましたが、余計なものをそぎ落として技に頼ることなくシンプルなファイトになったことで表現力が際立つようになったのです。


すべてを超越して中邑ワールドを確立

中邑が身体をくねらせて「滾る(たぎる)」スタイルになったのは11年7月にメキシコ遠征から帰国してからです。心のおもむくままにファイトを通して自分を表現していくスタイルは、格闘技とプロレスのベースがしっかりしているからこそ。総合格闘技とプロレスの枠を越えて自分を解放し、自由奔放になったことで誰にも真似ができない中邑ワールドが確立されました。

中邑は昨年、アメリカに遠征しましたが、言語及び文化を超越したパフォーマンスによって現地のファンをも魅了。その頃からWWEタレント・クリエーティブ・ライブイベント部門の取締役副社長トリプルH(WWEのトップレスラーで、総帥ビンス・マクマホンの娘婿でもある)は中邑の獲得を狙っていたようです。