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両国国技館の相撲の錦絵の前に立つ天龍

相撲はもちろんのこと、プロレスの聖地にもなっている現在の両国国技館は2代目です。旧・両国国技館は1909年(明治42年)に両国回向院の境内に建てられましたが、1917年11月に火事で焼失してしまい、1920年に再建されるも1923年9月1日の関東大震災で焼失。翌21年夏場所から建て直された国技館が使われたのですが、第二次世界大戦中の1944年に大日本帝国陸軍に接収され、終戦後はGHQに接収されてしまいました。その後、両国メモリアルホールとして改修・改装され、1951年9月30日に日本初のプロレス興行が開催されました。

記念すべき初プロレス興行は宗教団体『在日トリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブ』の招きで来日したアメリカ人レスラーによるもので、1カ月後の10月28日には同所で元大相撲の関脇・力道山がボビー・ブランズ相手に10分時間切れ引き分けのプロレス・デビュー戦を行っています。

両国メモリアルホールは52年4月1日に接収解除となりましたが、日本相撲協会は新たに蔵前国技館の建築を始めていたため、国際スタジアムに売却され、58年6月には日本大学に譲渡されて日大講堂となりました。この日大講堂でも馬場が72年10月22日に全日本プロレス旗揚げ戦を行うなど、数々のプロレスのビッグマッチが行われています。

力道山、馬場、猪木……昭和の名勝負を生んだ蔵前国技館

新たに誕生した蔵前国技館は相撲地だけでなく、プロレスの聖地にもなりました。54年2月19日、力道山&木村政彦vsシャープ兄弟の日本初の本格的なプロレス国際試合が開催されて日本全国でプロレスブームが巻き起こったのです。同年12月22日には”昭和版巌流島の決闘”と呼ばれた力道山と木村の日本選手権も開催されています。

この蔵前国技館で数多くの名勝負が生まれたのは力道山亡き後の馬場&猪木のBI時代。力道山の後継者としてインターナショナル・ヘビー級王者になった馬場はディック・ザ・ブルーザー、ブルーノ・サンマルチノ、ボボ・ブラジル、ジン・キニスキーらと名勝負を展開し、猪木は66年10月12日に23歳の若さで社長兼エースとして東京プロレス旗揚げ戦を開催してジョニー・バレンタインと伝説の一戦をやっています。

猪木は72年3月に新日本プロレスを旗揚げ後、この蔵前で黄金時代を作りました。ストロング小林、大木金太郎を撃破して実力日本一を邁進し、カール・ゴッチ、ルー・テーズ、ビル・ロビンソンらとはストロング・スタイルの原点を追求しました。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンとの抗争、ウィリー・ウイリアムスとのプロレスvs空手も忘れられません。83年6月2日にハルク・ホーガンのアックス・ボンバーを浴びて場外で舌を出して失神したもの蔵前でした。猪木以外にも藤波辰巳(現・辰爾)と長州力の名勝負数え唄がファンを熱狂させました。また84年6月14日には猪木とホーガンの第2回IWGP決勝戦に長州が乱入して猪木がリングアウト勝ちするという不透明決着に怒ったファンがリングに物を投げ込んでパニック状態になり、一部のファンがさらにエスカレートして大相撲の優勝掲額、時計、桟敷席、天皇陛下が座る貴賓席を破壊するるなど暴徒と化す事件も起こっています。

馬場の全日本ではザ・デストロイヤーとミル・マスカラスの覆面世界一決定戦、キャリア半年のジャンボ鶴田が馬場のパートナーに抜擢されてザ・ファンクスのインター・タッグ王座に挑戦して60分時間切れをやってのけた試合、馬場vs大木、テリー・ファンクがアブドーラ・ザ・ブッチャーに左腕をメッタ刺しにされた77年12月8日の『世界オープン・タッグ選手権』、84年2月23日に鶴田がニック・ボックウインクルを撃破して日本人初のAWA世界ヘビー級王者になった試合がオールドファンの印象に残っているのではないでしょうか。

蔵前のプロレス最終興行は84年夏。7月31日の全日本の最終興行では馬場がハンセンを撃破、8月2日の新日本の最終興行では猪木が長州力を撃破してBIの2大巨頭が存在感を見せつけました。

※2015年7月2日【訂正】 本文中に一部誤りがありましたので、訂正をさせていただきました。

両国での興行開催はプロレス団体のステータス

そして85年1月場所から大相撲の聖地は現在の2代目両国国技館に。同年3月9日、全日本がプロレスこけら落としとなる興行を開催、そのメインイベントが鶴田&天龍の鶴龍コンビにザ・ロード・ウォリアーズが挑戦したインター・タッグ選手権でした。その後、全日本のメイン会場は東京・九段の日本武道館になり、両国国技館は新日本のビッグマッチ用の会場というイメージが付きました。ただ、この両国でも新日本では暴動事件を起こしています。87年12月27日、猪木とビートたけし率いるTPG(たけしプロレス軍団)の抗争が生まれ、この大会にTPGの刺客としてビッグバン・ベイダーが初登場しました。しかし当時のファンは今と違ってプロレスにタレントが絡むのを毛嫌いしており、またまたファンの暴動が起こってしまったのです。これによって新日本は89年2月まで両国国技館を使用できなくなってしまいました。

それでも新日本の黄金時代はこの両国から生まれました。昭和末期は猪木vsブルーザー・ブロディの死闘、猪木率いる旧世代と藤波、長州、前田日明率いる新世代の世代闘争で大きな時代のうねりを作り、平成に入ってからは91年から夏の最強決定戦としてG1クライマックスをスタートさせました。名古屋・愛知県体育館&両国3連戦の第1回大会では藤波、長州が脱落して武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士が勝ち残り、橋本と武藤を連破した蝶野が優勝。平成の新時代が到来しました。藤波が優勝した93年の第3回大会は何と両国7連戦。連日1万人以上の大観衆が詰めかけ、実に7万6700人を動員しました。

両国国技館で興行を開催することは今もプロレス団体にとってステータスになっています。文科系プロレスから文武両道プロレスへと進化しているDDTは09年8月23日に初めて両国に進出し、今年も8月23日に『両国ピーターパン2015~DDTより愛をこめて~』を開催します。近々では7月17日に佐野直が主宰する佐野魂がインディーのレスラーを集めて『佐野直万博』なる大会を開催。その3日後の7月20日には大日本プロレスが満を持して両国に初進出します。大会名『両極譚』が示すようにストロング・スタイルのストロングBJと大日本ならではのデスマッチの両極に位置する2つのスタイルで勝負します。

今年で25回目を迎える新日本のG1クライマックスは7月20日~8月16日の全19戦というロングランですが8月14日~8月16日(優勝戦)の後半は両国3連戦。今やプロレス業界でひとり勝ちと言われる新日本が勝負をかけるのです。

そして11月27日にはプロレス生活40周年を迎えた天龍源一郎が引退興行。大相撲で最高位・前頭筆頭だった天龍は84年2月23日に蔵前国技館でUNヘビー級王者になった時に「これでやっと日本相撲協会に顔向けできる」と思ったといいます。中学2年生、13歳だった64年1月に蔵前国技館で初土俵を踏み、両国国技館でリングを降りる天龍は「これも運命かなと思うし、感慨深いものがあります」と語っていました。これからも両国国技館は相撲だけでなく、プロレスにおいても様々なドラマを生んでくれることでしょう。


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