棋士・糸谷哲郎は平成26年12月4日、第27期竜王戦七番勝負第5局で「ステルス」森内俊之(過去記事)に勝利、4勝1敗とし竜王の座に就いた。糸谷は現役大学院生。学生がプロ棋界のタイトルを獲得するなど、かつてないことである。しかも、竜王への挑戦者決定戦では「猛手」羽生善治(過去記事)を破っている。つまり羽生、森内と永世名人を連破した上での戴冠なのである。一気に「時の人」となった。

棋界の怪物くん

糸谷のニックネームは「怪物くん」である。これは、プロデビュー戦の相手となった橋本 崇載(たかのり)が、その強さに思わず発した言葉「(糸谷は)怪物だ」によるそうだ。「怪物くん」が「竜王位」を獲得し「怪物大王」へと変貌を遂げたのだ。この快挙をやってのけた彼の将棋については、プロ棋士や観戦記者によるたくさんの分析がなされている。ネットにも関連情報がたくさんアップされており、さすがにスペシャリスト達の分析だと感心させられることしきりだ。

しかし、ガイドはあえて言いたい。様々な切り口から、あふれんばかりに提示された糸谷「怪物大王」分析ではあるが、一つ足りない気がする。それは、ハイデガーという入り口である。

ハイデガーという入り口

マルティン・ハイデガー(1889-1976)。20世紀最大の哲学書と言われる『存在と時間』を著したドイツ人、哲学界の巨星である。大阪大学院の哲学科に籍を置く糸谷は、大学以来、ハイデガーの思想哲学に深く関わり、卒業論文のテーマにするほどの研究をしてきたのだ。

どの世界でもおなじであろうが、プロの世界は甘いものではない。天才と言われる子ども達が、奨励会というプロ棋士養成機関に入り、淘汰され、ほんの一握りの超天才のみが棋士となる。その超天才達が戦国時代さながらに争い、勝ち残ったものだけが冠を手に入れるのである。それゆえ奨励会入会により、学業をあきらめ、将棋にのみ没頭する道を選択した子ども達も珍しくはない。

竜王と玉/イメージ

竜王と玉/イメージ

そんな中、糸谷はプロ棋士として初の国立大学合格を果たし、大学院まで進んだ。哲学研究のためである。他の棋士達が新しい定跡の研究を行っている間、彼はハイデガー哲学にもその時間を割くことを選択したのだ。両立は困難なはずである。結果的には竜王位という棋界の山頂に旗を立てたが、当時は、そんな保証などあるはずもない。再度押さえておきたい。糸谷はプロ棋士になった後、大学の哲学科へと道を進め、さらに大学院へと道を進めたのだ。プロの厳しさを知り尽くしながら、哲学への歩みを進めたということは重要だ。周囲から、棋士生命に関わる重要な時期に何故という疑問は当然のように起きた。

糸谷が、それほどまでして希求した哲学とは何なのか?なかんずくハイデガーの思想とは何なのか。同じように糸谷を魅了した将棋との共通点もしくは接点があるのか否か。ガイドはこれを探りたい。

学識の優駿流

学識の庭に育つ/イメージ

学識の庭に育つ/イメージ

糸谷は祖父の影響で哲学科へ進んだ。祖父は中央大学の名誉教授、哲学の研究者である。それゆえだろうか、糸谷は「哲郎」と名付けられている。いずれにしても、生まれた時から哲学が空気のように存在したのだ。さらに、彼の祖母は祖父を上回る読書家であったそうだ。かように祖父母の代から学識の庭が存在したのである。そこで育った糸谷。彼が竜王位を奪取した森内、その祖父はプロ棋士である。ゆえに森内の将棋は「優駿流」とも呼ばれる。それに習うならば、糸谷は「学識の優駿流」であろう。そして、その庭から彼が選んだのが将棋とハイデガーだっだのだ。

もとより哲学になどに少しの縁もなかったガイドである。だが「怪物大王」を理解するために「付け焼き刃の上っ面」批判を覚悟の上で、まず、ハイデガーについてガイドが持つたった一つの知識からお付き合い願いたい。


ハイデガーの不屈と糸谷の好きな言葉

ヒトラー率いるナチス。ハイデガーはナチスに惹かれた。大学の学長に就任した際にナチスをたたえる演説をするほどに惹かれた。これは事実であり、これこそがガイドが持っているただ一つの知識である。第2次大戦で敗北したナチス。ファシズムとユダヤ人弾圧は国際社会から糾弾を受ける。当然のごとく、ハイデガーも大学を追われた。だが、である。だが、ハイデガーは、その後、名誉教授として復活するのである。まさしく不死鳥だ。そして、その忌まわしくも映る過去についてこう語ったそうだ。

「(そんな過去は)取るに足らぬことである」

彼の行動、言葉に対する尊敬、嫌悪、賞賛、憎悪……。各人にいろんな感情が交差することはもちろん承知の上で、そして善悪という基準を抜きにして言いたい。この言葉の、なんと、大胆不敵なことか。力強い「不屈」がそこにある。そして、糸谷の好きな言葉の一つが「不屈」なのである。もちろん糸谷がナチスを礼賛している訳ではない。ただ、ガイドはハイデガーの不屈さと、糸谷が好きだと語る「不屈」という言葉に、共鳴性を感じるのだ。ハイデガーから「不屈」を学んだのか、「不屈」があってこそハイデガーに興味を持ったのか、どちらが先かはわからない。しかし、いずれにしても、糸谷将棋も「大胆不敵」であることはたしかだ。その大胆不敵さの顕著な例として、新竜王誕生の対局となった森内戦から一手を紹介しよう。

竜王戦奪取で見せた糸谷の大胆不敵

局面図1

局面図1

竜王戦第5局、2日目は森内の封じ手(76手目▲87銀成)から始まった。さすがは「ステルス」森内。この手は大方が予想していない手だった。誰の視界からも外れたところに現れ、攻め込む。ここに私が言うステルスがある。森内ファン拍手喝采の手である。これが局面図1。赤丸で囲ったものが森内の手、 糸谷の固い穴熊に襲いかかる恐るべき一手だ。

 
局面図2

局面図2

さて、「怪物くん」糸谷はどうするか?局面図2をご覧いただきたい。77手目「▲同銀」。なんと、自ら作り上げた穴熊のふたを開けたのである。この銀は、元の位置に戻ることはほぼ不可能。「さあ、玉将の顔を見せましたよ。どうぞ、攻めてきてください」と挑発するような手だ。また、この手は森内側に千日手の選択を迫る手でもある。つまり、「どうです?千日手もありますよ。どちらでもお選び下さい」と語ってもいるのだ。まさしく「大胆不敵」そのものの手である。この不屈から生まれる大胆不敵こそが糸谷将棋なのだ。ガイドには、ハイデガーとの共通点が陽炎(かげろう)のように見えてくる。

さて、さらに進めよう。私のような門外漢が哲学を知ろうと思えば、あの入門書がある。

 

ソフィーにスルーされたハイデガー

哲学の入門書として世界に名高い『ソフィーの世界(ヨースタイン・ゴーデル=著・須田 朗=監修・池田香代子=訳)』。もちろん、日本でもベストセラーとなった。若かりし頃、ガイドも購入した本である。とても楽しく読める構成であり、スムーズな読破が可能な名著である。今回はガイドにとっても再読の良い機会である。ハイデガーはどのような思想を構築したのか。さっそく索引を引いた。「ハ行」の最初に「ハイデガー、マルティン(1889-1976)578」とある。高鳴る胸を押さえつつ、578ページをめくった。そして驚愕した。なんとハイデガーがスルーされているのである。こんなことがあっても良いのだろうか。棋士紹介の本で羽生善治がスルーされているようなものだ。会話形式で進められるこの部分を引用して紹介しよう。


「キルケゴールとニーチェから影響を受けたのが、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーだけど、この人はとばして、フランスの実存主義者、ジャン=ポール・サルトルに行こう。サルトルは……」

かようにあっさりと見事にスルーされている。20世紀最大の哲学書を書いたハイデガーがとばされているのだ。何でも将棋と関連させてしまう癖を持つガイドは、ふと村田英雄が「吹けば、飛ぶような将棋の駒に」と歌うヒット曲『王将』を思い出してしまった。

 話がそれた。なぜ、ハイデガーが将棋の駒のようにとばされたのか。ハイデガーは吹けば飛ぶような学者ではない。さては、ナチスに関わった過去が影響していたのか。その理由は、後になって浮かび上がってくるのだが、この時点では、まったく見当もつかなかった。仕方がない。ガイドは次の書へと進んだ。
 


「ある」を問うハイデガーと「ない」将棋

その書はガイドにピッタリのタイトルだった。いわく『この一冊で哲学がわかる!(白鳥春彦=著)』である。

 この書はソフィーとはまったく逆。なんとハイデガーのために項を設け、20ページ以上をさいている。言葉も平易でガイド向き。なんともありがたい書である。何度も読み返し、見えてきたことがある。ハイデガーは「ある」を問い続けた哲学者だったということだ。「ある」つまり「存在する」ということはどういうことなのか。ここに疑問を持ったのがハイデガーだった。ガイドには、この疑問自体が疑問だが、これがハイデガーである。彼以前には「ある」という言葉から発した哲学の例としてデカルトの「我思う、ゆえに我あり」がある。そして、ハイデガーはこの言葉を批判する。このデカルト発言は「我思う、ゆえに、我ありと思う我あり、と思う我あり……」と永遠に続くだけではないかと。ここまでくると、ガイドの手には負えない。しかし、一つだけわかることがあった。

将棋とは「ある」ではなく、「ない」を最終目標とする競技なのだ。これは過去記事「3月のライオンはマンガの姿をしたポエムである」にも書いたことなので、ぜひお読みいただきたい。厳密に言えば将棋に勝ちはない。詰みの状態、つまり、王将の行き場が無くなった時に「ありません」の一言によって負けが成立し、終了する競技なのである。その後に勝ちが姿を現す不思議な特質を持っている。いわば「ない=空」の裏に「ある」が成り立つという特殊な状態が将棋の本質に潜んでいるのだ。すでに述べたように哲学に無知なガイドではあるが、「ある」に疑問を持ったハイデガーと、将棋が持つ空の世界観に、かすかなリンクが感じられるのだ。もしや、糸谷はその深い研究から、この部分での何らかの共通点を認識しているのではないだろうか。さらに、この書には興味深いことが書かれていた。

ただ一つの確定は「死」そして「自由」

ハイデガーは『存在と時間』の中で次のように語ったそうだ。

「死は確実にやってくる。しかし当分はやってこないと人は言う。……こうして世人は、死の確実性が持つ特徴、いかなる瞬間にも可能であるということを隠蔽(いんぺい)してしまう。死の確実性には、それがいつやってくるのかの不確定性がともなっているのである」

ハイデガーは存在を「死を真正面から見つめること」で解明しようとしているのだ。そして究極まで「死」を探求していく中から「存在の意味は死を自覚することによって初めて本来的になる。今まで目をそらしていた死こそ、現存在にとって本来的な可能性であり自由である」という思想を得る。「死こそが自由につながる」というのだ。
では将棋に目を向けてみよう。将棋においては「死」がない。同じ盤競技であるチェスや囲碁は駒や石が死ぬ。だが、将棋の駒は死なない。取られれば、相手の駒となり、永遠に死なないのだ。かつて升田幸三が人材の活用と語った、将棋だけが持つ「持ち駒ルール」である(過去記事)。駒の生命という輪廻がつづき、勝負を決める最終の「詰め」においてさえも駒は死なない。前述のように「王将」が動けなくなったのである。競技におけるルールは思想であり哲学である。ならば、将棋が持つ哲学性は「死」の排除である。しかしながら、いや、だからこそだろうか、駒は自由に動き回る。たった一局における、その動きの場合の数は10の220乗。宇宙全体の分子の数に匹敵するほどの自由度である。

ハイデガー哲学が語る「死が前提となる現実での自由」世界。将棋の哲学である「死のない盤上の自由」世界。この2つに糸谷は大きく足を踏み入れているのである。糸谷の好きな言葉の一つが「不屈」であることはすでに述べた。実はもう一つある。それは「自由」という言葉なのである。

スルーされていなかったハイデガー、そして糸谷。


竜王と玉/イメージ

竜王と玉/イメージ

ガイドは『ソフィーの世界』においてハイデガーがスルーされていると書いた。それは、確かなことである。だが、再読した上で新たな認識というか感覚を持った。それは、この書全体がハイデガーの哲学そのものなのではないかということである。この書はソフィーという主人公を通して「存在」を問い続けている。「自分の存在とは何なのか」というテーマが貫かれているのである。

さて、ガイドの浅薄な分析ではあるが、以上をもとに、まとめてみたい。

糸谷はずっと己の存在を問い続けてきたのではないだろうか。その解を得る手段として「ハイデガー哲学」と「将棋哲学」を選んだのではないか。その探求の中から「怪物大王」へと進化してきたに違いない。もう一度、前掲の画像をご覧いただきたい。糸谷竜王の爪が獲得したものは「哲学」という玉(ぎょく)であろう。この玉無くして糸谷の快挙は語れぬと、あらためてガイドは言いたい。

終わりに

皆さん、ここまでお付き合いありがとうございました。糸谷哲郎・竜王のこれからの言動に「哲学」という光を当てて追いかけていきたいとガイドは思っています。ご意見、ご感想いただければ幸いです。

---追記---

「敬称に関して」

文中における個人名の敬称について、ガイドは下記のように考えています。
(1)プロ棋士の方の活動は公的であると考え、敬称を略させていただきます。ただし、ガイドが棋士としての行為外の活動だと考えた場合には敬称をつけさせていただきます。
(2)アマ棋士の方には敬称をつけさせていただきます。
(3)その他の方々も職業的公人であると考えた場合は敬称を略させていただきます。

「文中の記述に関して」
(1)文中の記述は、すべて記事の初公開時を現時点としています。



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