全国に先駆けての子ども棋戦誕生

現在も続く大分合同豆棋士将棋大会

現在も続く大分合同豆棋士将棋大会

昭和52年(1977年)……。ホームラン世界記録を更新した読売巨人軍・王貞治が国民栄誉賞の第一号に選ばれた年である。十年一昔という言葉に従えば、それこそ、はるか昔という感もするその年に、九州・大分の地に一つの将棋大会が産声を上げた。その名は「大分合同豆棋士将棋大会」。県下の小中学生を対象にした大会である。

主催は大分県最大の発行部数を持つ大分合同新聞社。小学生将棋名人戦(日本将棋連盟主催)の県予選が開始される20年以上も前のことだ。全国に先駆けての子ども棋戦が、中央から遠く離れた大分県に生まれたのはなぜなのか。

 

ある人物の思いがスタートだった


この大会は、ある人物の思いから始まった。

「将棋はすばらしい。けれど、子どもの頃の私は、思う存分指せなかった。だから、今の子どもたちには、心の底から楽しんでもらいたい。」
 
今回は、その人物にスポットをあてたい。
 
なぜ、その人は、指せなかったのか……。答えは簡単。女性だったからなのだ。彼女の名は、杉崎 里子(すぎさき さとこ)

漁師の町で

漁港(イメージ画像)

漁港(イメージ画像)

1942年(昭和17年)12月、呉服屋の娘として、大分県の東部に位置する佐賀関町(さがのせきまち)に彼女は生まれる。現在は「関サバ」「関アジ」などブランド水産品で知られる海辺の町だ。店は江戸時代から続く大きな商いの老舗(しにせ)だった。

「板子一枚下は地獄」を常とする漁師の町、佐賀関。命がけの漁を終え、陸(おか)に上がった彼らはつかの間の将棋を好んだ。トロ箱を重ねた台の上に盤を載せ、威勢良い声を響かせた。

「王手っ、待ったなしだぞ」
「ちきしょう、もう一番」
「だめだ、だめだ。今度は俺と替われ」

取り巻きの大人達の隙間には、幼い顔の観戦者もいた。もちろん将棋は漁師達の特権ではない。銭湯、空き地、路地……。町のいたるところで行われる縁台将棋は、ごくふつうの景色だった。

父もその一人だった。父は息子達に将棋を教え相手をさせた。彼女は門前での習わぬ経よろしく、見よう見まねで将棋を覚えていった。頼めば、兄弟は相手をしてくれた。いつの間にか将棋に惹かれ、目の色を変えるようになっていく。1週間に一回のお願いが、2日に一度、そして毎日となり、父さえも破る力をつけていった。駒を持つ幼い指先に熱いものを感じていた。


時代の言葉

しかし、当時の将棋は「男のもの」だった。将棋で遊ぶ娘に、母は言う。

「男に交じって、将棋を指すのは、やめなさい。あなたは女の子なのよ」

時代という背景を考えれば、けっして理不尽な言葉ではない。そういう女性が求められた世の中だったのだ。将棋は勝負事。勝負事は男のもの。母から駒を捨てられた。

「女のくせに」……。それが、時代の声だった。

彼女自身もその声を肯定する。だからこそ、母の言葉に納得し、お茶、お花、お琴など「女性のもの」に没頭しようとした。お稽古ごとに通い、時代に沿った「女らしさ」を身につけようと努力する。母の安心した顔は彼女の原動力ともなる。そして、成長した彼女はいくつかの職を経て、好きだった裁縫を学ぶべく短大に通い、和裁洋裁なんでもこなすようになる。指先に感じていた熱は灰に埋もれていった。



停留所で待っていたもの


停留所の側に…(イメージ画像)

停留所の側に…(イメージ画像)

短大のカリキュラムには教育実習があった。裁縫を子ども達に教えるため、バスに乗って実習校へ行かねばならない。停留所に降り立った彼女は、ある店の小さな看板をふと目にし、息をのんだ。

漁師達の喧噪(けんそう)や、父や兄弟達と響かせた駒音が耳の奥底にふるえた。看板にはぶっきらぼうに、こうとだけ書かれていた。「将棋倶楽部」……。

 


お世辞にも立派とは言えぬその構え。歓迎と言うよりも、他者を拒む結界にも似た何かががそこにはあった。「将棋は男のもの」という敷居は、まだしっかりと残っている。だが、今、聞こえたあの音は、灰の中に眠る炭が種火を残していたことを教えてくれた。停留所で待っていたものは、ぶっきらぼうな看板と指先の熱さだった。

彼女は扉に手をかけた。
捨てがたい郷愁にも似た思いだったのか、移り気な時代へのささやかな抵抗だったのか。はたまた、何気なさを担保にした行動だったのか。 

また、あの声が……

やはり、そこは男の場所だった。女の来る所ではなかったのだ。たばこの煙のむこうから、物珍しげな男達の目が扉を開けた彼女を刺した。そして、語るのだ。そう、あの言葉を。

「女のくせに」

だが、日をまたがずして、その声は沈黙に変わり、驚嘆へとつながる。

「女なのに……」
「女なのに、こんなに、強いのか」
「あんた、本当に女かい」

そう、彼女は猛者達の群れを、ことごとく打ち破っていったのだ。久々に指した将棋。だが、彼女は強かった。結局、その倶楽部で彼女を破る者はいなかった。


鋳鉄(ちゅうてつ)の扉が開く


時代がかぶせてきた灰が一気にふき飛んだ。その種火は、赤々と燃え上がった。時代の抑圧も、10年以上の歳月さえも消せなかった将棋への思い。ふと目にした将棋倶楽部がその思いを覚醒(かくせい)させた。この時、鋳鉄のように重かった運命の扉は開いたのだ。

彼女は将棋を愛していた。いや、将棋の方が彼女を愛していたのかもしれない。そうだ、きっと、そうだ。将棋が彼女を選び、ずっと待っていたのだ。扉を開けたのは、たしかに彼女だ。だが、開けさせたのは、将棋だった。

運命は、偶然と必然の線引きを曖昧(あいまい)に、いや、時として無意味化する。その後の彼女の足跡をたどればたどるほど、私はその感を強くする。

あるプロ棋士から、こんな言葉を聞いたことがある。

「1週間、いや3日間、将棋から遠ざかると自信がなくなりますね。」

もちろん、常人では測り知れぬ強さを持つプロ棋界でのことだ。だが、アマとは言え3日どころではない。なんと10年以上の空白を抱えながら、将棋好きでならす男達を総なめにしたという事実は、棋力だけではなく運命の加護によるものだったのではないか。ブランクだけではない。「女のくせに」という時代の風潮さえも、彼女のために用意された道しるべだったと今は思えてしまう。

彼女は1972年、1973年(昭和47年、48年)と2年連続して「全国女流アマ」準名人となり、1975年(昭和50年)に大分県で初の女流プロ棋士となる。大分合同新聞社の将棋欄観戦記者としての活動を始めたのもこの頃だ。


豆棋士たちが咲かせた花

 
「やっぱり、オーラがあったよ。」

彼女に出会った多くの人達がそう話してくれた。オーラは心を動かし、人を動かす。だから、時代が動く。「子ども達に将棋を……」という彼女の思いは、県下の将棋関係者の心をまとめ、地元新聞社を動かした。こうして、大分の地に、地元の子ども達だけの大会「大分合同豆棋士将棋大会」が産声を上げたのだ。

花を見ることなく逝く

花を見ることなく逝く

彼女のまいた「豆」は、発芽し大きく育つ。そして花を咲かせる。後に史上最強アマと呼ばれる怪物・早咲誠和アマ名人もこの豆棋士大会出身だ。また、その弟子である山崎由太郎氏も、この大会を卒業後「全国アマ名人」の大輪を咲かせた。また、この大会で腕を磨いた鈴木絵里菜氏は、全国高等学校将棋選手権大会女子の部で優勝する。まさに「女のくせに」という時代は動いたのだ。

 
だが、その花を見ることなく、1997年(平成9年)7月、彼女は逝った。54歳という若さだった。そして同年8月、日本将棋連盟は彼女に四段を追贈する。


最後に書いておきたいことがある。彼女が将棋だけではなく、「和洋裁教室」も最期まで続けていたことだ。彼女は母に止められた将棋とすすめられた裁縫を両の手に持って逝った……。大切にそっと持って逝ったのだ。
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