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3本のベルトの最終保持者はどっちだ!?

今こそ知っておくべき3大王座のルーツと歴史

全日本プロレスの最高峰・三冠ヘビー級選手権の現王者は諏訪魔ですが、来たる8月25日の東京・大田区総合体育館における潮崎豪との防衛戦を持って、伝統の3本のベルトが封印されることになりました。7月から新体制として再出発した全日本プロレスは、馬場元子夫人の要請を受けて、創始者であるジャイアント馬場家にベルトを返還することを決断したのです。

この三冠王座は名前の通りにインターナショナルヘビー級、PWFヘビー級、UNヘビー級の3つのタイトルを統合したものです。インターとUNは全日本プロレスが誕生する以前の日本プロレスの時代からあった王座で、全日本プロレス設立によって誕生したPWFを含めたこの3大王座の歴史は、そのまま日本のプロレス史であると言っても過言ではありません。この歴史と伝統のあるベルト封印にあたり、改めてそれぞれの王座の価値、そして三冠統一とは何だったのかを探りましょう。

3大王座の中で一番歴史があるのがインター王座です。インター王座は当時の世界最大のプロレス組織NWAが20世紀最大のレスラーと呼ばれたルー・テーズに贈った称号でした。テーズはNWA世界ヘビー級王者としてアメリカ、カナダのみならず、オーストラリア、東南アジア、日本など世界各地で活躍。57年11月に世界王座から転落したものの、NWAはその功績を称えて1958年4月にテーズを初代インター王者に認定したのです。そのテーズを1958年8月27日、ロサンゼルスで撃破した力道山が第2代王者となって日本に持ち帰りました。実に55年も前のことです。日本に持ち込まれたインター王座は63年12月の力道山死去によって封印されたものの、日本プロレスとNWAが協議の上、日本プロレスの管理下に置かれることになって65年に復活。争覇戦を勝ち抜き、同年11月24日にアメリカ代表のディック・ザ・ブルーザーとの王座決定戦に勝利して第3代王者になったジャイアント馬場は、力道山の正統後継者になると同時に新たな日本プロレス界のエースになりました。馬場は72年9月、日本プロレスを離れて全日本プロレスを設立する際に返上、同年12月に大木金太郎がチャンピオンになり、73年4月の日本プロレス崩壊後も母国・韓国で防衛戦を続けていましたが、NWAの勧告によって81年4月にベルトを返還。その管理運営権は全日本に委ねられ、以後はジャンボ鶴田の王座というイメージが強いと思います。

インター王座が力道山から馬場に受け継がれた王座なら、UNヘビー級王座はアントニオ猪木が馬場と並び立つきっかけとなったものです。UNとはユナイテッド・ナショナルの略で、NWAがアメリカ、カナダ、メキシコの3ヵ国で通用する準国際タイトルとして70年8月に新設。このベルトに猪木は71年3月26日、ロサンゼルスで挑戦。王者ジョン・トロスを撃破して第6代王者になり、馬場&猪木のBI時代を確かなものにしました。猪木以後、このベルトは坂口征二、高千穂明久(ザ・グレート・カブキの前身)が巻き、73年4月の日本プロレス崩壊後、高千穂が保持していたベルトはNWAに返還されましたが、全日本プロレスとNWAの協議によって76年8月に復活。ジャンボ鶴田がアメリカ代表の元NWA世界王者ジャック・ブリスコを破って復活王者になりました。鶴田以降は天龍源一郎の代名詞的王座になりました。

PWFヘビー級王座は全日本時代の馬場の代名詞。72年10月、全日本を旗揚げされる際に馬場は力道山家から力道山一代限りとされていたインターのベルトを寄贈されました。馬場はこれを「世界ヘビー級選手権」として復活させ、権威付けするために世界の強豪相手に王座争奪戦10試合をおこない、その結果次第でベルトを巻くことを宣言。ブルーノ・サンマルチノ(2回)、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ウイルバー・スナイダー(2回)、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナー、ボボ・ブラジルの8人と戦って8勝0敗2引き分けに。2つの引き分けは2回対戦したサンマルチノ、スナイダーで、いずれも再戦では勝利。73年2月27日のブラジルとの最終戦に勝利した上で馬場はベルトを腰に巻きました。しかし全日本プロレスは王座争奪戦開催中の73年2月3日にNWAに加盟したため、独自の世界王者は名乗れず、同年3月16日にNWA傘下としてPWF(太平洋沿岸レスリング同盟)が発足。馬場が獲得した力道山ベルトはPWF世界ヘビー級王座に認定されました。74年にはNWAからの要請で「世界」の2文字を取ってPWFヘビー級選手権が正式名称になっています。このPWFのベルトは長州力も巻いたことがあります。

王道は3本のベルトから新たな1本のベルトに継承される

こうした経緯で全日本プロレスにはインター、PWF、UNの3人のチャンピオンが存在しましたが、88年に「誰が最強なのか決めよう!」という気運が盛り上がり、UN王者の天龍がPWF王者スタン・ハンセンを破ってPWF&UN2冠王に。そして同年4月15日の大阪でPWF&UN王者・天龍とインター王者ブルーザー・ブロディによる史上初の三冠統一戦が行われましたが、両者リングアウトによって王座統一は成りませんでした。その後、インター王座は鶴田、UN&PWF王座はハンセンに移動。この2人の対決もなかなか決着がつかず、89年4月18日の東京・大田区体育館の3度目の対決で遂に鶴田が勝利して三冠統一を成し遂げました。

その後、新たなひとつのタイトルにする案もありましたが、それぞれの王座の歴史と伝統を重んじて「三冠ヘビー級王座」として、チャンピオンは3本のベルトを保持してきました。どのベルトを腰に巻くかはチャンピオンによって思い入れがあり、鶴田、川田利明、小橋建太は力道山、馬場、鶴田と受け継がれた日本プロレス界の正統エースの証とも言うべきインターのベルトを巻いていました。三沢光晴は腰に巻くよりも3本のベルトを肩にかけるのを好み、武藤敬司は3本をすべて腰に巻くスタイル。天龍は愛着のあるUNを巻き、その天龍に憧れていた諏訪魔もUNを巻いていましたが、この7月に全日本プロレスが新体制になってからは「これが全日本のルーツだから」とPWFのベルトを巻くようになりました。00年6月に全日本を離脱、11年10月にプロレスリング・ノア所属として三冠王者になった秋山準は、馬場元子夫人に電話を入れて承諾を得た上でPWFを巻いていました。新王者が誕生した時にどのベルトを巻くのかを見るのもマニアにとっては楽しみのひとつでした。

その3本のベルトは統一された時同じ会場で24年4ヵ月にして役目を終えることになります。現王者の諏訪魔は「勝って、守って、自分の手で元子さんにお返ししたい」とキッパリ。今後は馬場元子夫人の了承を得て、三冠ヘビー級王座の名前は継続、新たにベルトを作ることになります。

「元子さんと話をした時に“かなり古くてひどい状態になったわね”と。やはり大事に保管したい思いがあったんだろうし、こちらとしても新たなベルトを作る時期かなという思いもあったから、お互いの思いがいいタイミングで合ったということです。ただし、これからいくら凄い3本のベルトを作っても、この3本には敵わない。歴史が違うんだからね。だったら1本にして新しくやっていくのがいいいと思います」と言うのは渕正信相談役。

歴史と伝統の3本のベルトは封印されるますが、その王道は新たなベルトに宿り、諏訪魔や潮崎といった新たなエースたちによって受け継がれていくのです。

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