ロカビリーとは、和製ロックンロールの原点!

和製ポップスの源泉のひとつであり、和製ロックの原点であるロカビリー。1954年から1958年頃の本家アメリカでのブームを受け、2~3年遅れで日本でも大きなムーブメントを巻き起こした。それまでカントリー・ウェスタンやハワイアンを演奏していたバンドが次々とくら替えし、若者はこれまでにない"ロック"の興奮を求めてジャズ喫茶(現代で言うライブハウス)に押し寄せたのだ。
ロカビリー歌手とは

1950年代から1960年頃にアメリカで活躍したロカビリー歌手たち


ロカビリーブーム出身のスターは数多い。平尾昌晃、ミッキー・カーチス、内田裕也、ささきいさお、かまやつひろし、佐川満男らの活躍は今もめざましいし、故人でも坂本九、山下敬二郎、水原弘はもはや殿堂入りのスターと言えるだろう。

今回は日本の音楽シーン、芸能界に大きな衝撃をあたえた1950年代~1960年代のロカビリーに注目し、その普及の過程、日本独特の解釈について紹介したい。
   

ロカビリーの日本における誤解

まず"日本においてロカビリーという音楽は誤解されている"ということを理解することが和製ロカビリーを知る上で非常に重要だ。

誤解の原因は大まかに言うと、1950年代にアメリカで流行したロックンロール、ロカビリー、ティーンポップという一連の音楽を日本に輸入する際、一緒くたに"ロックンロール"、"ロカビリー"として紹介してしまったこと。当時の一般リスナーにとって『ダイアナ』(ポール・アンカ)はロックンロールであり、ロカビリーであり、ティーンポップだったわけだ。微妙な時期の差によって、言う人によって、また意図によって呼び方が変わったのだから、わけがわからなくなるのも仕方がない。
 

ロカビリーってなに?

元々、ロカビリーは白人のカントリー(特に限定して『ヒルビリー』を指すことも)と黒人のR&Bが融合する過程で生まれた音楽ジャンル。
alt=""

1950年代のロックンロール構図

1950年前後に黒人のR&Bシーンで発生した、独特の激しいビート感をともなったダンスミュージック、いわゆるロックンロールは次第に人種の垣根を越えて若者の心をつかんでいった。1950年代中ごろになると、黒人のシーンからチャック・ベリーやリトル・リチャード、白人のシーンからはビル・ヘイリーなどが台頭してロックンロールがメジャー化。また、彼らより若いエルヴィス・プレスリーらによるカントリー臭いシンプルなロックンロールも第三の勢力として大きな反響を呼び、これが特にロカビリーと呼ばれるようになっていったのだ。

ちなみにティーンポップとは本来1950年代のものに限った表現ではないが、ここではアメリカでロックンロールもロカビリーも飽きられはじめた1958年頃から一世風靡したポール・アンカ、二ール・セダカ、コニー・フランシスらによる若者向けロックンロール風ポップスを指している。

そういう経緯をおさえていれば音楽の違いはもちろん「ロカビリーはロックンロール」という表現も「ロカビリーはロックンロールの一ジャンル(黒人のR&B系ロックンロールやビル・ヘイリーのような多人数の営業バンドによるロックンロールとは異なる)」「『ダイアナ』はロカビリーではない」という表現も矛盾なく理解できるのだが、インターネットも衛星放送もない当時の日本のリスナーには無理な話。

引き続いて日本にロカビリーが普及し、同時に誤解されていく過程を具体的に説明していこう。
 

ロカビリーブーム(第二次ロックンロールブーム)に至るまでの道のり

日本ではロカビリー以前に、すでにロックンロールがちょっとしたブームとして認知されていた。ロックンロールが初めて紹介されたのは江利チエミが『ロック・アラウンド・ザ・クロック』(ビル・ヘイリーと彼のコメッツ)をカバーした1955年11月。

ロカビリーが紹介されたのは約半年後の1956年6月。小坂一也とワゴン・マスターズの『ハートブレイク・ホテル』(エルヴィス・プレスリー)だったが、この時点ではロカビリーという言葉がまだ知られていなかったので、あくまで"ロックンロール"として扱われていた。

ともあれ、この曲が年末の紅白歌合戦で披露されたことでロックンロールはちょっとしたブームになり、小坂一也は"和製プレスリー"と呼ばれて第一次ロックンロールブームの中心人物になった。翌1957年の紅白歌合戦ではこの流れに乗った浜村美智子が『監獄ロック』、雪村いづみが『ビー・バップ・ア・ルーラ』をカバーしている。

また、ジャズ喫茶でロックンロールを披露していた平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らもそれぞれ注目を集めるようになり、1958年2月8日に開催された第一回日劇ウエスタンカーニバルへの出演がきっかけで"ロカビリー三人男"として第二次ロックンロールブーム、つまりロカビリーブームを主導することになるのだ。
 

"ロカビリー"という言葉の初出 そのいきさつは?

みぞぐちカツ氏の調べによると"ロカビリー"という言葉を初めて日本に紹介したのは当時、日本テレビのディレクターだった井原高忠。まだ駆け出しの平尾、ミッキー、山下らを小坂一也に代表される既存のロックンロール歌手と区別し、日劇ウェスタンカーニバルを効果的に宣伝するため(『ミュージックライフ』1958年1月号)の戦略だったようだ。もちろんそこに音楽的な配慮は無かった。この経緯をふまえると、まさに日劇ウェスタンカーニバルこそ日本のロカビリーブームの象徴と言えるだろう。
 

ロカビリーブームの象徴"日劇ウェスタンカーニバル"

日劇ウェスタンカーニバルは新世代による第二次ロックンロールブームの萌芽をいち早く感じ取っていた渡辺プロの渡邊美佐が企画し、その傘下で、のちにホリプロを興す堀威夫が実務をとりしきった一大プロジェクト。この前代未聞のロック・フェスティバルはテレビや新聞で連日のように報道され、一週間の公演で四万人を越える、当時としては驚異的な動員を記録した。

動員記録もそうだが、なにより注目されたのは観客の熱狂ぶり。音楽も聞こえないほどの歓声をあげ、思い思いに踊り、ステージに紙テープ、果てにはパンツを投げ、興奮のあまりアーティストに抱きつく者まで出る始末。好意的な反応ならまだしも、山下敬二郎の回想によると反米思想の観客がナイフを投げて楽器に突き刺さるなんてことまであったというから、当時の良くも悪くもエネルギッシュな空気感には驚かされるばかりだ。
alt=""

山下敬二郎


この大反響を見た渡辺プロは5月26日に開催される第二回日劇ウェスタンカーニバルまでの間にも間断なく各地でロカビリーイベントを開催。その間の4月には山下敬二郎が『ダイアナ』をリリースし"ロカビリー"初の、そして最大のヒットとなっていくのだった。
alt=""

和製ロカビリー最大のヒット 山下敬二郎『ダイアナ』(1958年4月)
 

ロックンロール=ロカビリー=ティーンポップに

日劇ウェスタンカーニバル以降、それまでロックンロールと呼ばれていた音楽が徐々に"ロカビリー"と呼び変えられていく。もちろん新たに輸入される音楽も一緒くたに"ロカビリー"。これには、前述した理由による混同に加えてもう一つ巧妙な考えが働いていたように思われる。

というのも……ロカビリーはアメリカではエルヴィス・プレスリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクランというスターを生み出したが、音楽としては非常にシンプルで解釈幅が狭く、歌唱においても独特の節回しを重要視するためポップスとして発展させるには難があった。日本でも原曲、和製カバーともに有名な曲と言えばせいぜい『ハート・ブレイク・ホテル』、『ビー・バップ・ア・ルーラ』くらいのもので、音楽的には受け入れられているとは言いがたかった。ただ、本場ロカビリー歌手のスマートで不良っぽいイメージや、リーゼントなどのファッションは大いにもてはやされていたのだ。

一方、チャック・ベリーやビル・ヘイリー、ザ・コースターズなどのロックンロール歌手は、日本人にもなじみやすいポップな曲を量産しているにもかかわらず、いかにも海千山千でオッサンじみた容貌がわざわいしてあまり人気が無かった。またアメリカで新たに台頭しつつあったポール・アンカやニール・セダカなどのティーンポップ歌手も、日本で紹介すればビジネスとして面白い商材であるように思われたが、1、2年でめまぐるしく流行が移り変わったこの時代に、これらを個別に仕掛けて売り出すのは骨が折れることだったろう。
alt=

いかにもオッサン面なチャック・ベリーとビルヘイリー


それなら……「どうせ似たような音楽だし、それらをすべて"ロカビリー"と思いこませてしまえれば、なんとなくカッコいいイメージでいいとこ取りしながら手間もかけずに売り出せるんじゃないかな」と思ってもなんら不思議はないのだ。

疑いすぎだと思う方もあるかもしれないが、何か一つ流行ったら近しいものをすべてそこにカテゴライズして売り出そうとするのは日本音楽界の伝統的な商戦法。のちのグループサウンズもしかり、フォークもしかり、ヒップホップもしかりである。
 

日本のロカビリーは誤解の上に成り立っている

そういうわけで平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などのロカビリー歌手は第一回日劇ウェスタンカーニバル以降に『監獄ロック』や『ハウンド・ドッグ』などロックンロール風ポップスに転向以降のエルヴィス・プレスリーだったり、前述の『ダイアナ』、『おお!キャロル』(ニール・セダカ)などのティーンポップをカバーして一時代を築くが、これによって日本におけるロカビリーの誤解は決定づけられてしまった。

この誤解は1980年代になってロカビリーリバイバルが起こった際の『ためいきロカビリー』(近藤真彦)や『俺たちのロカビリーナイト』(チェッカーズ)といった楽曲にまで長く引き継がれることになるわけだが、個人的にこれは恥じるようなことではないと思う。これだけ追求しておいてなんだと思うかもしれないが、アメリカ人やヨーロッパ人だってサムライ、ニンジャなどの日本文化を誤解している人は多い。

「一般人はいいけどプロはダメ」だって? 『ラストサムライ』や『SHOGUN』も世界に名だたるプロ集団が何十億も何百億もかけて制作してるのに大誤解だらけじゃないか。誤解だろうがなんだろうが、文化なんて結果的に面白ければいい。むしろ誤解の一つや二つあるからこそ面白みも広がりも出でこようというものである。

いささか感情的になって本題からそれてしまったが、そろそろ締めなので誤解を恐れずに結論を言おう。日本のロカビリーは誤解があったからこそ面白くなった。

【関連記事】

※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。