プロレス/1980年代に活躍したすごい男性プロレスラー

「全日本のエース」ジャンボ鶴田

ミュンヘンオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイル最重量級元代表です。その後全日本プロレスに入り、ジャイアント馬場の後継者として大型エースになりました。1980年代、トップレスラーとして活躍するも、引退から約1年後、49歳で病死しました。

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ミュンヘンオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイル最重量級元代表です。その後全日本プロレスに入り、ジャイアント馬場の後継者として大型エースになりました。1980年代、トップレスラーとして活躍するも、引退から約1年後、49歳で病死しました。

ジャンボ鶴田のココがスゴイ!

■ジャイアント馬場から直々のスカウト
名門中央大学レスリング部に3年次から在籍。オリンピックの日本代表として1972年のミュンヘンオリンピックに出場しました。これらの実績により、ジャイアント馬場から直々にプロレスにスカウトされたのです。

■世界の鶴田として、エースの座を馬場から継承
1983年8月31日、蔵前国技館でブルーザー・ブロディを倒し、インターナショナル・ヘビー級王座を奪取、第14代王者となりました。これは力道山以来の快挙。この試合後、馬場から「今日からお前がエースだ」と労われ、全日本のエースとなったといわれています。

■初代三冠ヘビー級王者
1989年4月、初代三冠(インター・PWF・UN)を統一し、ヘビー級王者に。人気は不動のものとなり、敵地での試合であっても、入場時に「ツルタ、オー!」コールで沸くこともあったそうです。こうして全日本のエースから、日本プロレス界のエースへとさらに成長していきました。

■エースなのに気取らない人柄
リングを降りるとマイペースだったことで有名です。付き人であった三沢光晴も「鶴田さんは自分の好きなテニスやバスケットボールを楽しみながら必要な筋肉を付けていたのだと思う」と述べています。その逸話もさることながら、あの三沢が付き人だったこともすごいことですね。

※ちなみに余談ですが、大のプロレスファンである第95代内閣総理大臣・野田佳彦氏も、ジャンボ鶴田が最強レスラーだと主張する人の1人です。

■墓碑に刻まれた「人生はチャレンジだ!」
座右の銘は「人生はチャレンジだ、チャンスは掴め」。これは師匠であるジャイアント馬場から継承したもので、墓碑に刻まれています。

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