文章:山口 由紀(All About「二世帯住宅で暮らす 」旧ガイド)
夫の実家である、新潟・長岡市の実家に滞在していた時、たまたま今回の地震に遭遇することとなりました。東京へ帰ることもままならず、地震発生から4日間を現地で過すという経験をしました。そこで今回は、【二世帯住宅で暮らす】というサイト主旨とは離れますが、長岡市で過した記録をここに残したいと思います。

地震発生【10/23(土)17:56 ※長岡市震度6弱】

親戚10名が集まり団欒をしていたその時、ドドッと縦揺れが来て、すぐにガタガタ、ガシャガシャと激しい横揺れ。東京で経験していた震度3ぐらいの揺れがなんとゆっくりなのか...と思うほど激しく揺れ、立っているのが難しいと思われた。私は、とっさに子供の上に覆い被さり頭から布団をかぶった。1回目の地震が30秒ぐらい続く。かなり長く感じた。他の家族の様子を見る余裕が無い。一番気になったストーブの火だが、始末をしようとしたら自動的に安全装置が働いて消火していた。

実家は築45年以上経過している。阪神の被害を視察している経験から「この揺れが長く続くと倒壊するかも...」と恐怖を感じる。このままじっと建物内で待機していてはいけない。外に避難する必要を強く感じるが、避難のタイミングに迷う。避難しなければと思った矢先に次の地震が襲ってくる。1回目とほとんど変らない強い揺れだった。

建物はガタガタ、ギシギシ、ガシャガシャと音を立て「今度こそ倒れるか!」と思っていると停電になる。家の中は真っ暗になり「もうここに居ては危険。いよいよ避難しなくてはならない!」と感じ起き上がった。夫や義弟が『外へ出るぞ!』と掛け声をかける。暗い家の中、子供の衣類やおむつが入ったかばんと、貴重品が入った自分のかばん、子供の上着と靴をつかんで玄関から飛び出した。今回は、旅先であったため荷物がひとつにまとめてあったのも幸いした。

家族は皆、比較的落ち着いて行動していた。おそらく全員が揃っていて心強く、パニックに陥らなかったためと思う。地震は、揺れもさることながら、地の底から響いてくる“音”が怖いものだと初めて知った。


地震発生当日の夜

自宅前は、昔ガスタンクがあったという広場。通常は入り口に鍵がかけられているが、そこを管理するガス会社の社員の方が近隣に住んでいたため、開錠してもらう。その方が中心となり、近隣住民は車でその広場へ避難するよう誘導してもらう。約80台の車と、約300人の住民が1日目の夜をその広場で過ごすこととなる。

余震が続き、恐怖で最初のうちはだれも自宅に近寄らない。市役所の緊急時の放送や広報車などの巡回もなく、電気が復旧する見込みもまったく解らない。情報は車のラジオしかない。バッテリーが持たないので車の照明をつけるのは最低限にする。携帯電話で親戚に全員無事であることを連絡しようとするが、なかなかつながらない。携帯のバッテリーも残り少なくなるので手短に話し、先方がテレビなどから得た情報を聞く。それらの情報から自分たちの状況と今後の事に思いをめぐらす。長引きそうだと不安がよぎる。

いよいよ今夜はこの広場で寝るしかないと覚悟し、家から毛布や食べ物飲み物を取って来る。危ないので家に戻るのは最低限に短時間に済ませ、必ず2人で行くようにする。車はワゴンが1台あるのみ、全員が車に乗れない。外は冷え込みが強くとても毛布1枚では一晩過ごすのは無理。夫と義弟は、寝ないで家の玄関で戸を開けたまま過ごす事となった。食料は比較的あるほうだが、長持ちしないものばかりであった。コンビニに行くが【販売停止】で警備員がついていた。災害によるパニック暴動を防止させる処置が取られているらしい。

私達家族が避難した場所は、自主的に近隣の人が集まり避難した場所。しかし、リーダーとして中心になる方が現れ、余震で車が将棋倒しにならないようにと、車の停め方を考え指示をしたり、災害対策本部へ避難状況を連絡し食糧配給の依頼をしたりと、秩序が保たれていた。また、近所にお住まいの看護師の方が待機して下さったり、皆が協力的だった。我が家に車が1台で、全員が乗れないのを知ると、周りの人は声をかけてくれたり、酸素ボンベをしている義父の様子を心配してくれる。日頃のご近所との付き合いがあるからこそ、こんなときにもお互い助け合えるものとつくづく感じた。

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