(2005.01.27)

趙紫陽(チャオツーヤン)・元中国共産党総書記が15年の軟禁生活の末1月17日に死去したというニュースは、微妙な形で中国社会に波紋を呼び、連日彼の死に関連したニュースが流れてきています。趙紫陽とはどのような政治家だったのでしょうか。

1ページ目 【文革の終結から趙紫陽政権の誕生まで】
2ページ目 【追い詰められた趙紫陽、そして天安門事件】
3ページ目 【趙紫陽は何を目指していたのか】

【文革の終結から趙紫陽政権の誕生まで】

天安門事件前夜の悲痛なスピーチ

1989年5月19日、総書記であった趙紫陽は、民主化を求め天安門でハンストを続け、またはそれを支持する学生たちの前に現れ、ハンドマイクで涙ながらにこう語りかけました。

「われわれは来るのが遅すぎた」「われわれが若かったころも、デモをやり線路に寝転んだ。」「しかし、・・・多くの問題は解決されるだろう。諸君らにハンストの中止をお願いする」

趙紫陽の周りには、いつしかサインを求める学生の輪ができていました。

しかし、その後趙紫陽は失脚し、戒厳令がしかれ、やがていったい何人の死者が出たのかいまだ不明確な流血の惨事、天安門事件が起こってしまったのでした。

天安門事件以前の中国

さて、この天安門事件を語る前に、当時の中国がどういう状況にあったのかをご説明しなければなりません。

死者40万人、被害者1億人以上を出し、中国を大混乱に陥れたプロレタリア文化大革命(文革)は、中華人民共和国建国の父、毛沢東(マオツオートン)の死去(1976年)によって終息に向かいます。

その後、激しい権力闘争の末、毛にかわって新たな最高指導者になったのが、トウ小平(トンシャオピン)でした。彼は、文革によって停滞してしまった経済を立て直し、国家を発展させていくため、市場経済・競争原理の導入なども含めた経済改革を断行します。これがいわゆる「改革・開放」路線の始まりでした。

この「改革・開放」についてここでは細かく述べませんが、現代中国の経済発展はこの路線なくしては語れません。純粋社会主義路線から「改革・開放」路線にかじをおおきくきっていったトウの功績は、大きなものがあるといえます。

「トロイカ体制」+「八老体制」

しかし、トウは毛と違い、共産党の公式なトップにはなりませんでした。彼は実務は若手に任せようとしました。そこで公式トップである総書記には胡耀邦(こようほう:フーヤオパン)、ナンバー2には趙紫陽を就任させ、経済改革を実行させます。

そして、そのうえに立つ非公式な権力基盤として、トウを中心とした八人の長老(トウ、陳雲(チェンユン)、李先念(リーシエンニエン)、彭真(ほうしん:ポンチエン)、トウ頴超(とうえいちょう:トンインチャオ、女性)、楊尚昆(ヤンシャンクン)、薄一波(ポーイーポー)、王震(ワンチエン))たちによる「八老」体制を整えました。

こうして、トウ→胡→趙という表向きのトップ3トロイカ体制と、それを非公式に監督する八老体制のもと、中国の「改革・開放」路線はスタートしました。

胡耀邦の解任と趙紫陽の総書記就任

「改革・開放」路線で徐々に経済発展が始まっていった中国ですが、同時にさまざまな問題や路線対立も生まれてきます。どれくらい自由な経済活動を許すべきなのか。自由化が社会主義の崩壊を招かないか。さまざまな議論がなされます。経済の自由化によって生まれた貧富格差、官僚の汚職なども大きな問題でした。

そのようななか、経済だけでなく、政治も自由化すべき、つまり民主化すべきだという声も学生を中心として叫ばれるようになります。これは1986年末の大規模な学生運動に発展、この責任をとって胡耀邦は総書記を解任されます。

そして新たに趙紫陽が総書記に、李鵬(リーポン)が首相となって、新たなトロイカ体制がスタートしたのでした。趙はトウの支持のもと、なおも改革・開放路線を拡大していこうとします。しかし、思わぬ出来事が、趙紫陽の運命を変えてしまうことになったのでした。