「続徳川実紀」にあるルート

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今回の散歩で利用した「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)。江戸時代の切絵図と現代の地図が見開きで見ることができる。
図書館で『幕末の大奥』高柳金芳著(有斐閣)というのを見つけた。ここに篤姫が江戸城に輿入れしたときのルートが掲載されていた。
このルートは『続徳川実紀』の中にある徳川家定の記録「温恭院御実紀」にあるそうだ。
少し長いが引用しよう。

渋谷の松平(島津)薩摩守下屋敷裏門より備中守下屋敷前-北条美濃守下屋敷前通りを左へ-麻布三軒家-桜田町御書院番組屋敷-芋洗坂大久保加賀守下屋敷前通り-六本木五島左衛門尉屋敷脇-飯倉片町上杉駿河守屋敷前-四辻より左へ-飯倉松平右近将監屋敷前-西久保通りを右へ-相良元三郎屋敷前-木下主計頭屋敷脇前-稲葉伊予守屋敷前を右へ-久保町-幸橋御門-松平時之助屋敷前脇-松平薩摩守屋敷脇-松平肥前守屋敷前を通り右へ-日比谷御門-八代洲河岸通り-龍の口-遠藤但馬守屋敷前脇-酒井雅楽頭屋敷前脇-御堀端通り平川口

という具合である。各ポイントが出ている。江戸切絵図でこのポイントを探しながら歩いてみることにした。切絵図は人文社さんが出している「江戸東京散歩」を参考にした。
切絵図についてはgooの古地図サイトへリンクを貼っておくので、記事を読む際に参考にしていただければ幸いである。切絵図というのは、名前の通り、各地域ごとが1枚切り取られている。この記事では1枚の切絵図で1ページという具合に進んでいく。
また、現在の地図はいつものようにALPSLABさんのサイトで作成し、リンクしているので、現在の散歩コースの参考にしていただきたい。

薩摩守下屋敷裏門をスタート

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いまは「常磐松の碑」が建っている。渋谷薩摩屋敷跡。
安政の大地震で被害を受けた三田にある薩摩屋敷から、篤姫はこの渋谷薩摩屋敷跡に住まいを移し、ここから江戸城大奥へ輿入れすることになった。
切り絵図で見ると、渋谷の薩摩屋敷は広大である。表門は現在の青山学院大学の正門をまっすぐ入ったあたりだろうか。今は六本木通りで遮断されているが、南に長く延びた屋敷であった。
渋谷区東4-4-9に「常磐松の碑」が建っているのだが、このあたりが裏門にあたるだろう。わかりずらい場所だが、渋谷駅からの行き方は、まず明治通りを恵比寿方面へ歩こう。東港番前の交差点を左。角に商和稲荷という小さな稲荷神社がある。この先に切絵図にもある氷川神社がある。
國學院大學の前を通り過ぎ、郷土博物館・文学館の前にあるマンションの前にこの碑がある。
よく探さないとわからないほどの小さな碑である。このあたりが薩摩屋敷の裏門だったろう。

備中守下屋敷前

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日赤医療センター前から広尾ガーデンヒルズにかけての道。
「常磐松の碑」から坂を下ると常陸宮邸の入り口がある。警察官が立っている坂を下ると東4丁目の交差点だ。今は五叉路になっているが、切絵図では一本道だ。実際の道に立ってみると、なるほどこの道が昔ながらの道だとわかる。これが古地図散歩のおもしろさだ。
というわけで、東京女学館、日赤医療センター方向へ歩こう。
日赤医療センターから、広尾ガーデンヒルズあたりが備中守下屋敷である。屋敷前の「前」というのは表門の前を通り過ぎるということだろう。切絵図は表門のある方向を上にして名前が書かれている。また、上屋敷には家紋が描かれている。
ちょうど古地図の切れているあたりでわかりずらいかもしれないが、現在の地図で見るとわかりやすい。ちょこんと飛び出たところに表門があったのではないだろうか。
そこを通り過ぎていく。

切絵図はgoo 古地図 東都青山之繪図

渋谷の松平(島津)薩摩守下屋敷裏門より備中守下屋敷前まで


北条美濃守下屋敷前通りを左へ

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古い道である北条坂
備中守下屋敷前の表門の前を通り過ぎたあとの道はわかりづらい。当時はなかった外苑西通りがあるのだ。それに次のポイントである「北条美濃守下屋敷」がどこなのかがよくわからない。その後に出てくるポイントを考えれば、北条坂を登っていくのではないかと思われるので、そちらへ行く。北条坂の標識には「坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためこの名がついた」とある。切絵図には「北條遠江守」とあるところだろうか。実際、大名の屋敷はよく主が変わったそうだ。だからこそ、切絵図も新しい版が売れたわけだ。ちなみに「東京江戸散歩」に収録されているのは、文久元年改訂とある。1861年だから、篤姫が輿入れをした安政3年(1856年)の5年後ということになる。


麻布三軒家

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北条坂をあがったところ。その先は仙台坂に通じる道がクランク状につながっている
昔の道というのはおもしろい。北条坂をあがるとテレビ朝日通りにあたる。交差点でいえば愛育病院前。切絵図を見るとここを左に曲がったところの道に小さな文字で「三ケンヤ丁」という記述がある。ここが麻布三軒家だろう。このテレビ朝日通りをまっすぐ行けば、切絵図には「サクラダ丁」という記述が見える。

桜田町御書院番組屋敷

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六本木ヒルズの西側、テレビ朝日通から六本木通りへバイパスする道。
御書院番というのは将軍の親衛隊である。その組屋敷があったのは、今の六本木ヒルズの脇あたりだろうか。テレビ朝日通りから六本木通りへカーブしてバイパスする道、切絵図を見ると、この道の両脇に屋敷があるのがわかる。

芋洗坂大久保加賀守下屋敷前通り

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今のロアビルあたりが大久保加賀守下屋敷だったろうか。
芋洗い坂を横切るようにして外苑東通りに出る。このあたりの道は切絵図とほぼ同じだ。「大久保加賀守下屋敷」というのは、今のロアビルあたりだろうか。
東京タワーが見える。もちろん東京タワーをはじめとして、江戸時代にはないものばかりである。

六本木五島左衛門尉屋敷脇-飯倉片町上杉駿河守屋敷前

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外務省飯倉公館が上杉駿河守屋敷のあったところではないだろうか
今でこそ目抜き通りとなっている外苑東通りだが、切絵図にある五嶋近江守尉の上屋敷の表門は通り沿いにはない。だから「脇」ということになるのだろう。さらにまっすぐ進む。今は高速道路が横切り、地下道のある飯倉片町の交差点を直進。
「飯倉片町上杉駿河守屋敷前」というのは、今の外務省飯倉公館から麻布郵便局までの広大な敷地だろう。
切絵図にもある榎坂をくだると四辻である。ここを左に進む。ちょうど切絵図ではいちばん端になる。

古地図はgoo 古地図 東都麻布之繪図

北条美濃守下屋敷前通りを左へ-麻布三軒家-桜田町御書院番組屋敷-芋洗坂大久保加賀守下屋敷前通り-六本木五島左衛門尉屋敷脇-飯倉片町上杉駿河守屋敷前-四辻より左へ


飯倉松平右近将監屋敷前

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パストラルホテルの入り口あたりから江戸見坂までの広大な敷地が松平右近将監屋敷か。
かつて四辻といわれたところを左へ行く。桜田通りだ。切絵図にも載っている八幡神社は今も同じ場所にある。ただ桜田通りがずいぶん拡幅されているので、昔と同じではないのかもしれない。次のポイントである「飯倉松平右近将監屋敷前」というのを探してみる。よくわからないが、江戸見坂というのは今も残っている。そのあたりからパストラルホテルの入り口あたりまでだろうか。広大な敷地である。

相良元三郎屋敷前

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たぶん虎ノ門1丁目の交差点あたりが相良元三郎屋敷前ではないだろうか。
このあたりから、ちょっと場所の特定が怪しくなる。まず、「西久保通りを右へ」の西久保通りがよくわからない。相良元三郎屋敷というと相良志摩守だろうか。いずれにしろ、道の突き当たりに屋敷がある。今の桜田通りはそのまままっすぐ伸びているから、あったとしたら、虎ノ門一丁目の交差点あたりだろうか。

木下主計頭屋敷脇前

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たぶん、このビルの脇を入ったところか。
ここもよくわからない。木下主計頭屋敷とあるのは相模志摩守の隣にある木下飛騨守の屋敷だろうか。「脇前」とつけられているところを見ると、方向からいって木下飛騨守の上屋敷でいいと思う。脇を通って表門の前を通るからだ。そして、現在だと「小諸そば」のビルあたりではないだろうか。

稲葉伊予守屋敷前を右へ

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屋敷の跡というかんじはまったくない小さなビルがある一角があった。
路地をまっすぐ行けば、たぶんここだろうと思われる。「稲葉伊予守屋敷」前を右とあるので、曲がってみた。この通りは外堀通りと平行して走っている。たぶんこの通りでいいのではないだろうか。今、外堀通りのあたりは切絵図によれば文字通りお濠である。

久保町

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外堀通りと平行して長く続く商店街。
江戸時代は堀端から一本南側の道がこの通りとなるはずだ。切絵図にはここに久保町の名前が見える。その他にも町屋が並んでいるが、この先が幸橋御門の前あたりの空き地が「久保丁原」になっていて、このあたり一帯を「久保町」と呼んでいたのかもしれない。

幸橋御門

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今は新橋駅前の交差点になっている幸橋御門のあたり
幸橋は、今の新橋二丁目の交差点かもうひとつ線路よりのあたりだろうか。いずれにしろ新橋駅の近くである。現在、このあたりの風景は一変している。濠が埋め立てられているからだ。ちょうどJRの線路あたりがお濠だったろう。

古地図はgoo 古地図 芝口南西久保愛宕下之繪図

飯倉松平右近将監屋敷前-西久保通りを右へ-相良元三郎屋敷前-木下主計頭屋敷脇前-稲葉伊予守屋敷前を右へ-久保町-幸橋御門


松平時之助屋敷前脇

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切絵図には松平甲斐守の上屋敷とある。現在の第一ホテルから東新ビルあたりだろうか。
切絵図にある松平甲斐守というのは、5代将軍綱吉の側用人とし活躍した柳沢吉保の子孫の屋敷である。江戸時代、幸橋御門を過ぎた右側に松平甲斐守の上屋敷がある。今の第一ホテルあたりであろうか。右側も濠でそこをまっすぐ行けば、松平薩摩守屋敷ということになる。

松平薩摩守屋敷脇

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装束屋敷とも呼ばれていた薩摩藩の屋敷があったあたり。
かつてはこの屋敷が薩摩藩の上屋敷だったようだが、手狭になったので、三田に移ったそうだ。篤姫輿入れの時は中屋敷であったろうか。手狭といっても、いまの「みずほ銀行」「NTT日比谷ビル」「大和生命ビル」あたりまでがその屋敷だったようだ。ここは別名「装束屋敷」ともいわれる。琉球使節がこの屋敷で装束を改め、登城したからだそうだ。
ちなみに、大和生命ビルあたりが、後に明治になって鹿鳴館が建てられた場所である。
そのあたりは今度ゆっくり散歩してみたい。先を急ごう。

松平肥前守屋敷前を通り右へ

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今も日比谷公園に残る石垣の跡。
ここもよくわからないポイントのひとつ。松平肥前守屋敷は現在の日比谷公園になっている。道があり表門があったはずなのだが、今は公園である。
その痕跡などはほとんどわからないのだが、石垣のあとなどが残っている。

日比谷御門

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日比谷交差点。かつてはこの道路も濠だったと思われる。
日比谷御門も正確にはどこだからからないのだが、たぶん日比谷の交差点あたりだろう。ここに日比谷御門を渡ったつもりになって、横断歩道を渡る。するとそこは目の前には日比谷濠がある。



古地図はgoo 古地図 麹町永田町外桜田繪図

松平時之助屋敷前脇-松平薩摩守屋敷脇-松平肥前守屋敷前を通り右へ-日比谷御門


八代洲河岸通り

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かつては大名屋敷が多数あった八代洲河岸通り。
八代洲河岸(やよすかし)は、かつて家康の顧問だったオランダ人ヤン・ヨーステンの名前が由来である。これは東京駅の八重洲という地名の由来と同じ。場所は馬場先門から和田倉門までのお堀端。かつてこの通りは大名屋敷がずらりと並んだ通りであった。

龍の口-遠藤但馬守屋敷前脇

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和田倉門への通りのことを辰の口といった。
今回使用した資料には「龍の口」とあるが切絵図を見ると「辰の口」になっている。いずれにしろ読み方は「たつのくち」である。今回参考にした「東京江戸散歩」に遠藤但馬守の屋敷は載っていない。ただ、安政7年3月3日に起こった桜田門外の変にこの屋敷は登場している。井伊直弼の首を取った有村次左衛門兼清が重傷を負い、辰の口にあった遠藤但馬守屋敷前で自刃している。切絵図は慶応元年のもので、そのときにはここに屋敷はなかったが、篤姫の輿入れのときにはあったはずだ。

酒井雅楽頭屋敷前脇

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大手門は観光客でいっぱい。
この大手門の斜め前が酒井雅楽頭屋敷であった。大手門という江戸城の正門でありながら、実に小さい。現在は大手門までまっすぐした道があるが、切絵図で見れば、門までのまっすぐな道はない。酒井雅楽頭屋敷の脇を通らなければ大手門に到達できなかったのだ。

御堀端通り平川口

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ついに平川門に到着。大奥の専用門である。
やっと平川門にたどりつく。門の中に入ると説明書きがあった。この門は竹橋門より侵入してきた敵を撃退できるように細長い城郭(=帯郭)を持っているのが特徴だとある。改めて江戸城は巨大な軍事施設だと思い知らされる。さらに罪人や死人が出ると、この門から出されたので不浄門とも呼ばれていたそうだ。東御苑が開放されている日は中に入れる。ちなみに入場は無料である。

そして大奥、御広敷へ

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大奥は名前の通り、大手門から見てもっとも奥にある。
平川門を渡ってもすぐに大奥に到着するわけではない。坂をのぼり、天守閣のあった場所から、本丸までかなり距離がある。大奥は本丸の後ろ側にあった。大奥の玄関口ともいえるのが御広敷である。今は、芝生になって、人々が寝ころんでいる様子も見ることができる。
以上、篤姫のルートをたどってみたが、間違いがあるかもしれないことをお断りしておく。
それにしても、江戸の町というのは実にお屋敷が多く、その屋敷は今でいえばひとつの町くらいの敷地面積があったりするわけで、江戸は町そのものが城郭のようだと思った次第である。

古地図はgoo 古地図 御曲輪内大名小路繪図

八代洲河岸通り-龍の口-遠藤但馬守屋敷前脇-酒井雅楽頭屋敷前脇-御堀端通り平川口




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