蔵前駅からまっすぐ雷門へ

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雷門へまっすぐ近づいていく。きょうも観光客でいっぱいだ。
僕が東京を散歩するようになった理由のひとつは永井荷風にある。
荷風は、明治から昭和にかけて活躍した文豪で、散歩の随筆なども多い。
日記文学としての最高峰ともいえる「断腸亭日乗」には、散歩の記述も多数ある。それらを読んでいると、荷風の足跡をたどって歩いてみたくなるのだ。
さて、今回は小説、「墨東綺譚」(実際にはサンズイに墨。以下、便宜的に「墨」を使用)の世界を歩く。
まずは、蔵前駅から雷門をめざす。浅草駅から歩いてもいいが、雷門を見るなら、蔵前駅より江戸通りを行き、正面から雷門を見ながら歩きたい。

さて今回のテーマでもある永井荷風だけれど、どれか一冊でも読んでから散歩に出かけたい。
荷風作品のおもしろさは、実に多角的に楽しむことができる点だろう。

「墨東綺譚」を書くため、荷風は取材のために玉の井へ何度も足を運んでいる。昭和11年のことだ。
取材を開始し、1ヶ月ほどで、随筆「寺じまの記」を書いている。「寺じま」というのは、かつて玉の井があった地名である。今の住居表示は東向島である。
荷風は小説の構想を練りながら、まずは随筆を書いたのだ。その冒頭部分はこうだ。

<雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。>

荷風が歩いた昭和11年に雷門はなかった。再建されたのは昭和35年。荷風が亡くなった翌年である。

アリゾナ キッチンで食事をする

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一時閉店していたが、97年に昔の外観そのままに復活した「アリゾナ キッチン」。店の前の木が目印。
雷門の前を右に曲がると吾妻橋である。
さらに松屋方向に曲がる。これが馬道通りである。
「馬道」という名前の由来はかつて吉原に行く客たちが馬に乗り、この道を通ったというのだという説、あるいは浅草寺には馬場があって、僧たちが馬を連れてこの馬場に通う道であったからだという説などがある。
この馬道通りを吾妻橋方向から左側を歩き、何本目かの路地を入ったところにアリゾナ キッチンがある。場所はちょっとわかりづらい。
創業は昭和24年。荷風はここに亡くなる34年まで通い続ける。

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これが荷風がいつも食べていたという「チキンレバークレオール」若鶏とレバーの煮込み料理だ。
最初に荷風がこの店にきたのは、昭和24年7月12日。「断腸亭日乗」によれば、

<味思ひの外に悪からず値亦廉なり。スープ八拾円シチュー百五拾円。>

とある。荷風はいつも同じ席に座って、同じものを注文したそうだ。
店内には永井荷風の写真もある。このレストランで撮られた写真で、食べているのは「チキンレバークレオール」だそうだ。

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こちらはメニューに荷風も愛し、お店でも一番人気だとあったビーフシチュー。お肉がとろけるよう。
「アリゾナ キッチン」へ荷風はいつも11時半ころ来たのだそうだ。同じ席に座り、同じメニューを食べ続けた。しばらく食べ続けると、また、別のメニューを食べ続ける。
好きだったのは肉料理。
たとえば、こんなメニューである。
<タンシチューとグラタン、それにお銚子一本>
これが続くと今度は
<チキンレバークレオールとカレーライス、ビール一本>
といったものが続くというわけである。けっこうな大食漢だ。

吾妻橋をわたり墨堤通りを北上

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浅草通りから墨堤通りへ歩みを進める。
アリゾナキッチンに通ったのは戦後の荷風である。時間を巻き戻そう。「墨東綺譚」の取材で玉の井へ通うのは昭和11年のことである。随筆「寺じまの記」で、荷風は吾妻橋のところから乗合自動車に乗る。当時はちょうど吾妻橋西詰(浅草側)がバスのターミナルになっていたようだ。「寺じまの記」によれば、荷風は玉の井へ行く車は二種類あると書いている。ひとつは市営乗合自動車、もうひとつは京成乗合自動車。その名前が車体の横腹に書いてあった。そして、市営は藍色、京成は黄色の車体である。
バスといっても当時は10人くらいの定員だった。荷風は満員で、腰もかけられないだろうと思いながら京成乗合自動車に乗る。
車内は予想に反して、7、8人の乗客しか乗っていない。
この随筆は実に克明にバスの乗客や景色が描写されている。
バスは吾妻橋をわたって隅田川の東側へ。同じように歩みを進める。墨東散歩である。

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遊歩道があって、歩くのが楽しい隅田公園。公園内には池などもある。
吾妻橋を渡り、吾妻橋一丁目の交差点を左折する。
荷風が乗ったバスはこの先にある本所吾妻橋駅のところで三ツ目通で曲がる。そして源森(げんもり)橋をわっている。
僕はそれよりも手前の墨堤通りを曲がり、アサヒビールの裏手を通り、墨田区役所の前に出る。その先にあるのが枕橋。
高架になっている東武伊勢崎線に電車が走っている。
枕橋をわたるとそこは隅田公園である。
左側は隅田川その東岸に広がる森のような公園だ。

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牛島神社。境内には牛の像などもある。
隅田公園をどんどん北へ歩くと牛島神社がある。かなり大きな神社である。
狛犬だけではなく、牛の像もある。
神社の真ん中を通っている道路を右へ。言問橋東の交差点がある。
ここから千葉街道を北上する。
このあたりの住居表示は向島になっている。

鳩の街商店街へ

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ごく狭い通りの鳩の街通り商店街。注意していないと思わず通り過ぎてしまいそうだ。
水戸街道を行くと、交差点ごとに向島二丁目、向島三丁目、向島四丁目という具合に番号があがっていく。
そして、向島五丁目の次が東向島一丁目と、「東」がつく。東がついているのが、昔の「寺島」地区である。
この交差点から西側にのびているのが「鳩の街通り」である。
大人が2人、両手を広げればいっぱいになる道幅の商店街で、注意していないとそれと気がつかずに通り過ぎてしまいそうだ。
入り口のあたりに「鳩の街通り お年寄りにやさしい街」と書かれた幟(ノボリ)があったが、それも古びていてよく見ないとわからない。

ここ、鳩の街は、戦後の有名な色町であった。
これから行く「玉の井」が空襲で焼け、そこを焼け出された人たちが寺島一丁目(現在の東向島一丁目)に移住してきたそうだ。
かつてはかなり賑わっていたようだが、しかし、なんでこんな場所がと思っい、昔の地図を広げてみた。
すると、水戸街道にはかつて都電が昭和44年まで走っており、鳩の街通りの前あたりが「寺島一丁目」という停留所だったのだ。都内を散歩していて、時おり時間の止まったような商店街に出会うが、たいていそこには同じような歴史がある。

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鳩の街通りから一歩路地に入るとこんな住宅街がある。昭和初期を感じさせるのどかな路地だ。
今もそうだが、何かを規制する法律というのは、まず施工され、1年後には罰則規定も実施されるというように進んでいく。売春防止法も昭和32年4月に施工され、その1年後の33年4月には罰則規定も実施されるようになった。それで鳩の街は色町では無くなってしまったのである。
今の鳩の街通りには普通の住宅や商店が並んでいる。ただ、道などはたぶん当時のままだろうし、建物もその当時のものを改造したのではないかと思わせるものがあって、自分はその時代のことをまったく知らないのだけれど、なんだか懐かしい気分になってしまう。
もちろん永井荷風の作品にも登場するが、鳩の街を題材にした小説家といえば、吉行淳之介だろう。「原色の街」「驟雨」などの作品はこの鳩の街が舞台になっている。


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手前の看板が古い薬屋さんを改造してできたという古本・ギャラリー&カフェの「ごぐま」。商店街になじんでいるが、オープンは2006年である。
歩いてみると幅は狭いが、けっこう長い商店街である。この中ほどにあるのが、ギャラリーと本のあるカフェ「こぐま」である。昭和2年に建てられた薬屋さんを改造し、2006年にオープンした。
木造長屋をそのまま改造しているので、注意して探さないと見逃してしまいそうである。それだけ、この商店街そのものに溶け込んでいる。
なるほど、有名なのか店内はお客さんいっぱいである。
ここで珈琲をいただくことにする。
テーブルと椅子は昔懐かしい、学校で使っていたものと同じ。
展示してある本も自由に見てよいそうで、なかなかいいカフェである。
カフェを出て、再び通りを歩こうとしたら、そこに「寺島保育園」の文字が見えた。
この一帯はかつて「寺島」という住所だったが、それが今は「東向島」になっている。
昔の名前がこういうところに残っているのかとまた感慨深いものがあった。

旧玉ノ井駅「東向島駅」に到達

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かつてこの駅は「玉ノ井」であった「東向島駅」。今は東武博物館も併設されている。
鳩の街通りを抜けると高速道路に当たる。そこを左にまっすぐう行けば、地蔵坂通りになる。「地蔵坂」は随筆「寺じまの記」にも登場する。
この一帯も実におもしろそうな商店街なのだが、今回は先をいそぐため、じっくりは見ず、住宅街を北上することにする。
次ぎに大きな通りに出る。それが明治通りだ。
ここに向島百花園がある。明治通りをわたるとその先に東武伊勢崎線「東向島駅」がある。おお、やっとたどりついた。駅の看板を見ると、
「東向島駅(旧玉ノ井駅)」となっている。
ここが玉の井である。線路沿いに北に行くと、「玉の井いろは通り」の入り口となる。

「玉の井いろは通り」を歩く

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かつては「ぬけられます」の文字があった「玉の井いろは通り」
いよいよ「墨東綺譚」の現場である。この小説は、けっこう複雑である。主人公は、荷風本人を思わせる大江匡という58歳の人物。彼は、小説の題材を探しにこの「玉の井」にやってくる。それで、思いついた小説というのが、これまた同じように大江匡本人を思わせるような種田順平という人物を主人公にしたものというものだ。
そんな小説を考えながら、大江匡はこの玉の井でお雪という若い女性と出会い、その情交が綴られていくのである。
小説、随筆、日記の3点を読み比べてみると虚虚実実のおもしろさがある。
実際、日記である「断腸亭日乗」には、かなり生々しく玉の井の様子が書かれている。
かつて私娼窟であり、どぶ川沿いに多くの二階建ての家が並んでいたという面影はまったくない。ごく普通の商店街だ。
少し歩いたところにスーパーがあり、横の路地を入っていくとお稲荷様の鳥居がある。
ここに永井荷風の「墨東綺譚」の説明書きがあった。

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荷風が「断腸亭日乗」に残した玉の井の精緻な地図
説明書きの中には、荷風自身が調べて書いた玉の井の地図が載っている。これを見ると荷風が歩き、人々に聞きながらこの地図を作成したかがよくわかる。
しかし、小説「墨東綺譚」には、この地図が必要だろうと思われる箇所はない。ただ、こうして地図を作ることで、歩きながら小説の構想を練っていたのではないだろうか。
随筆「寺じまの記」では、玉の井をつぶさに観察している様子が描かれている。
「街の名はやっぱり寺嶋町(てらじままち)か。」
「そう。七丁目だよ。~」
という会話を娼婦と交わしている。
また、玉の井から出て、ちょうど昭和11年に廃線となった線路あとなどを見て、今度は改正道路(今の水戸街道)まで出て、乗合自動車で浅草まで向かっているのだ。
荷風の時代にもいろいろなものが変わったが、今日も同じように町並みは変わる。ただ、道だけはかわらなかった。そかし、それも最近の再開発では道そのものがなくなることが多い。僕はそれらがなくなる前にできるだけいろいろな街を歩いてみたいと思っている。


<関連リンク>
永井荷風 - Wikipedia
ぼく東綺譚 - Wikipedia
こぐまは鳩の街通り商店街の古い木造長屋のカフェ
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