小崎まり選手とロンドンマラソン参戦

笑いに包まれて送りのバスを待つ。これから大一番とは思えぬ和やかさ
笑いに包まれて送りのバスを待つ。これから大一番とは思えぬ和やかさ
2010年4月25日午前7時。英国ロンドン、テムズ川に架かるタワーブリッジの袂、プレスセンターが置かれ、招待選手の宿舎となったタワーホテル1階ロビーに、ノーリツの小崎まり選手と森岡芳彦監督、そして昨年2009年アシックスを定年退社、今年1月にアディダスジャパンとの専属アドバイザー契約を発表した三村仁司氏(ミムラボ)の3人が談笑、いや、笑い転げているといったほうがよいのか、賑やかに選手用バスの到着を待っていた。

今年のロンドンマラソンは、北京五輪メダリスト、ベルリン世界陸上メダリストに加え名だたるランナーが名を連ね、世界一決定戦と期待を集めていた。が、直前になってのアイスランドの火山噴火による影響で、選手の入国がままならないというアクシデントに見舞われ、関係者を直前までやきもきさせた。かくいう、筆者も便がとれたのが搭乗前々日の22日というきわどい日程だった。

日本からの招待ランナーは、男子が入船敏(カネボウ)、松宮隆行(コニカミノルタ)の両選手、女子は世界陸上銀メダルの尾崎好美(第一生命)、期待のママさんランナー赤羽由紀子(ホクレン)、そしてミセスランナーの小崎まり(ノーリツ)の3選手。やはり苦労しての現地入りとなった。

衆目を集めていたのは尾崎、赤羽の両選手で、日本でテレビ放映したテレビ東京のWEBサイトで紹介されていたのもこの両選手だけ。それもそのはず小崎選手の出場は、2月になってから決定したとのことだ。赤羽、小崎選手は共に1月に開催された大阪国際女子に出場し赤羽選手は途中棄権、小崎選手は失敗レースとなった2007年大阪世界陸上以来の久しぶりのフルマラソン公式レース出場で、日本人1位の3位(2時間26分27秒)となったが、初マラソン女子日本3位記録の2時間23分30秒の自己ベストには遠い。34歳という年齢もマスコミの評価に反映していただろう。おまけに十分な準備が積めているのか、という危惧もある。

緊張をほぐす選手とのコミュニケーション術

「現場」を離れてもコミュニケーションは完璧
「現場」を離れてもコミュニケーションは完璧
いつも明るく緊張することも滅多にないという小崎選手だが、この朝、森岡監督からはちょっと緊張しているように見えたらしい。森岡監督は三村氏に緊張のほぐし役を依頼したのだとか。シューズを手にしている写真を見ると、どれも眉間にしわを寄せて冗談のひとつも言いそうにない表情をしている「現代の名工」三村氏だが、選手とのコミュニケーションをとる技術も「名工」だ。

小崎選手を送り出した三村氏は「彼女、今日は調子がいいようですよ」とひとこと。三村氏が小崎選手のシューズを手懸けるようになって15年。小崎選手の調子は手に取るようにわかる。小崎選手の出身高校は女子陸上長距離の名門宇治高校(現立命館宇治高校)。陸上部のトップグループに入れると特注のシューズを作れたそうだが、当時の小崎選手はそのトップグループに入れず、監督に内緒でアシックスの三村氏を訪ねてシューズを作ったという。

シューズで脚長を矯正した

「彼女はね脚の長さが1cmも違っていたんですよ。これでは走れない。故障を起こしてしまう。それもシューズで矯正していくと長さが近くなっていくんです。今の差は2~3mm、違っても5mm以内に納まってます」

シューズによって脚の長さを補正するだけではなく、矯正できるということは初めて知った。ランナーの足は変化するという。これは筆者もいっかいの市民ランナーながらそれは経験している。トレーニングによって変わるし、その時の状態でも変化するという。フルマラソンでいえば、スタート時とフィニッシュ間近では足は変形している。気温、湿度、速度、さまざまな要素がからみあってくる。したがって、たまに足を採寸したぐらいでは最適のシューズは作れないのだ。その選手のことをとことん知り尽くしていなければ「最適」のシューズはできない。

高橋尚子さんも左右の長さが8mm違い、シドニー五輪時に当人が左右同じシューズを希望したにも関わらず、三村氏はその長さを補正したシューズを本人に隠して提供したという話はよく知られている。もし結果を残せなかったら責任を問われることになる決断だったはずだが、氏に覚悟と揺るぎない自信があったからこそできたことだろう。

脚長が違って走り込めなかった小崎まり

選手送迎もロンドン名物赤い二階建てバス
選手送迎もロンドン名物赤い二階建てバス
小崎選手が国際大会に登場するのは、2001年世界陸上エドモントン大会10000m。初マラソンは2003年の大阪国際女子で、紹介したように日本女子初マラソン歴代第3位記録となる2時間23分30秒で走り世界陸上パリ大会の補欠に選ばれた。しかしその後足踏みをする。2005年の世界陸上ヘルシンキ大会は正選手で出場し15位。2007年世界陸上大阪大会に連続出場したが14位。夏の大会とはいえ記録も2時間35分04秒。北京五輪代表、世界陸上ベルリン代表の座も逃し、誰もがピークを過ぎたと思っていたところ今年の大阪国際女子で日本人トップの3位(2時間26分27秒)でゴール、復活の兆しを見せた。

「彼女は遅咲きなんですよ。マラソンは長い距離を走り込まなきゃだめだけど、長い距離を練習することができなかったんです。脚の長さが揃ってきてやっと長い距離を走れるようになった。それからまだそんなに時間がたっていないですからね、まだ伸び白がある」と三村氏。

レースは午前9時にスタート。女子エリートの部は、男子エリートや一般の部より45分前にスタートする。日本の女子マラソン大会同様、男子ランナーのリードが受けられない女子のみのレース仕様で、これもロンドンマラソンがこの大会の女子記録の権威を誇示する理由になっている。

しかし、一般ランナーにとって絶え間ない大声援とロンドンの名所巡りをするこのコースの評判が高いのにひきかえ、エリートランナーにとって走路は必ずしも走りやすいとはいえない。その理由の一つが古都ならではの石畳、ヨーロッパ特有の硬い舗装、テレビでもご覧になったと思うがつぎはぎだらけの路面、道幅は広くなったり路地裏のようになったりと千変万化、コーナーも多い。このコースをペースランナーは、2時間20分のゴールタイムペースで引っ張る。

マメができやすいコースだが―

トップ集団の約20km地点通過。小崎選手は後ろから2番目の好位置に付けていた
トップ集団の約20km地点通過。小崎選手は後ろから2番目の好位置に付けていた
「ロンドンマラソンはシューズを作る上で難しいコースですよ」

この日もスタートする頃から小雨が降りだし、小崎選手のシューズを作り続けてきた三村氏もちょっと心配げな表情だ。気候のコンディションはよかったが、路面コンディションは悪い。

「レース用のシューズは、コースの路面、ルートをよく調べて作ります。ヨーロッパの路面は硬いね。ロンドンは石畳もあるし。ロンドンはすでに6回来ておりその点はよくわかってます。それでも今日のように濡れたらスリップしやすいので、もちろん対策はしてますが心配やね。それからロンドンマラソンのコースはコーナーが多いから、マメができやすいです。それも考えます」

三村氏は、中間点手前の折り返してきて残り7km地点にもあたるタワーブリッジ袂近くで声援。小崎選手も期待に応え27、28kmあたりでは優勝したショブホワと肩を並べて先頭に立ち、30km手前までは2時間21分台ペースの先頭グループにぴたりと付いて走った。その後徐々にペースを落としたものの、ラストはペースの落ち込みを食い止め2時間25分43秒、9位でゴールした。

実際に小崎選手の話でも水たまりを除けたり、コーナーのたびに前を走る選手がコーナー側に寄ってくるので、レース中は気が抜けなかったという。しかし、シューズについての心配はまったくなかったとのことだ。赤羽選手は5kmでマメができ、爪が死んだという報道があったが、小崎選手は足には何事もなくフィニッシュできた。翌日はロンドン観光と買い物、それにこれがしたかったというホテルでの「お茶」と疲れを見せない。

「ちょっと力を余してしまいました。もっとタイムを短縮できたですよね」と反省を口にする小崎選手だが、森岡監督は大阪国際女子完走後わずか3ヶ月のインターバルでのレースで、期待以上の走りを見せてくれたことにほっとした表情。いまここで完全に力を出し切るよりも、今年11月から始まる、2011年世界陸上大邱大会代表の座を争うレースへ向けて、良い流れに乗れたことに安心したということだろう。それに「世界」と闘うには何が不足しているのか、何をすればいいのかはっきりと掴めたレースになったはずだ。

選手の足にフィットするだけでは不足

足に何の障害も起きなかった。思い通りの結果に頬もゆるむ
足に何の障害も起きなかった。思い通りの結果に頬もゆるむ
シューズ制作において選手の足にフィットさせるのは当然として、その走り(キックを効かすのか、足を運ぶのか)や、小崎選手に対するように、体型、骨格まで知り尽くし、さらにコース状況、レース時の気象までも想定して素材を組み合わせ(時には新素材を開発し)、求める機能を織り出すのが三村流。

「選手が要望するシューズを作るだけではいかんのです。選手が自分のシューズについて先入観を持っていて、選手が要望してくるシューズがその選手にとって本当に良いシューズとはいえないことがあるんです。そんなときは、あなたは、こうなんだからこういうシューズを履いたらもっと記録が伸びるよ、故障が減るよと説明して、本当にその選手にとって必要なシューズを提供してやらんとね。でも、それが選手の意識と食い違ったときに、選手がそのシューズを履くかどうか。それは選手との信頼関係ですよ。疑心暗鬼で履くのではなく、こちらに全幅の信頼を置いてもらえるかどうか。それにはこちらも徹底的に全力を傾けんとね」

フル2時間28分台のランナー経験が生きる

今回のシューズは、硬い路面を考慮して幾分クッション性を高めたという
今回のシューズは、硬い路面を考慮して幾分クッション性を高めたという
三村仁司氏には、42年間アシックスで積み重ねてきた経験とともにもう一つの強みがある。それは、三村氏がアスリートとして活躍していた事実だ。高校時代に長距離の名門高校で長距離選手だった三村氏は、オニツカ株式会社(現アシックス)に入社してもランニングを続け、24歳の時にはフルマラソンを2時間28分台で走っている。

「フルマラソンを走るといっても、選手として勤務で優遇されるわけでもなく、仕事が終わってからフェリーで別府大分マラソンに向かうなんていう生活でした」

そんな経験が、特注部門をまかされてからものをいった。シューズの耐久性に関して持っていた不満、それまで常識とされていた足型やサイズについての疑問。マラソンランナーの体についてもわかるし、選手の心理的な状況もわかる。そして選手の要望に応えるだけでは本物のシューズはできないという考えが、次第に確固としたものに育ち結果も出していった。

「三村さんに作ってもらうシューズは、レース用だけでなく練習用にもずっと履いていますから、他のシューズを履いたときはとっても違和感があるんです。ちょっと急いでコピー取ってきてなんていわれても、違うシューズだったら怖くて小走りもできないです」と小崎選手。まさに脚の一部になっているのだ。

パフォーマンスを高めるだけでなく弱点補強も

今後、より質の高い練習に移行するとなると、ますますシューズの重要性が増してくる
今後、より質の高い練習に移行するとなると、ますますシューズの重要性が増してくる
「今度のロンドンマラソン対策シューズを作り始めたのは2月に出場が決まってから。時間はなかったけど、小崎選手の足と走りを知り尽くしていたのとロンドンマラソンのコース状況もわかっていたので、試作は2種だけ」

それでもぴったり合ったシューズができた。小崎選手も三村氏のアドバイスに全面的に信頼を置いているという。野口みずき選手がアテネ五輪で優勝したときシューズにキスをして、三村氏に最大限の感謝の気持ちを示した。ヤクルトの青木宣親選手は、三村氏スパイクを制作してもらうようになってからケガもなくホームランがグンと増えたという。選手のパフォーマンスを高めるだけでなく弱点をサポートできるのが三村氏だ。

「レースだけじゃないんです。練習しなきゃ強くなれない。その練習が十分にできるシューズも作らないと」厚労省から「現代の名工」の表彰を受け、「神の手を持つ男」(『オニツカの遺伝子』(ベースボールマガジン社)と呼ばれる男は、単に手業に優れた職人ではない。技術、知識と経験に加えて選手への愛がある。

今回のロンドンマラソンにおける小崎選手へのシューズ提供は、小崎選手にとってもロンドン五輪代表の座への第一歩であると同時に、三村氏をチームに加えたアディダスにとっても、ロンドン五輪を制覇するための始動のステージであった。その意味でも、小崎選手の走りに三村氏は改めて手応えを感じた様子だった。



<関連リンク>
現代の名工、三村仁司氏が生み出すシューズ
三村仁司さんインタビュー
ロンドンマラソン 公式ホームページ
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