漢方の知識に優れた馬俊仁コーチ

馬軍団を紹介した『世界記録続出の軌跡—陸上競技中国馬家軍』
馬軍団を紹介した『世界記録続出の軌跡—陸上競技中国馬家軍』(ベースボールマガジン社)
北京五輪が近づいています。今回の五輪への開催国中国の力の入れ方は並々ならぬものがあり、メダル獲得数もかつてないような大量獲得が予想されます。陸上競技では110mハードルの劉翔選手とマラソンの周春秀選手が確実視されていますが、他の種目でもどんな選手が出てくるのか予想も付きません。

世界の陸上指導者の間で、中国の陸上界に関して未だに強く印象に残っているのが、馬俊仁コーチが率いた馬軍団(中国では「馬家軍(マーチャージン)」)の活躍です。馬俊仁氏は陸上競技の経験なしで中学校のコーチをして優秀な成果を上げ、省の体育学校のコーチに迎えられて馬軍団を育てました。競技、コーチングの研究熱心さだけでなく、20年来研究したという漢方の知識を選手の体作りに取り入れて、驚異的な練習量を可能にして好成績を残したのです。

馬軍団のピークは1993年の(中国)全国運動会においてでした。名前からすると日本の国体のようですが、大国とあって全国運動会は省対抗の名誉をかけ白熱したレースが展開されます。トップ選手はすべて出場し、その成績は新聞の1面を大きく飾ります。この大会に馬軍団の選手は、メダル狩りをした世界選手権から転戦、今度は順位にこだわらぬ積極レースで、男子並みといわれた世界記録を次々に生み出したのです。その中で、1500m(曲雲霞選手 3分50秒46)、3000m(王軍霞選手 8分06秒11)、10000m(王軍霞選手 29分31秒78)の世界記録は未だに破られていません。

ドーピング疑惑に応えてノウハウ公開

この活躍には世界中のスポーツ関係者からドーピング疑惑の声が上がりました。異例とも言える度重なる抜き打ち検査などが行われましたが、結果はシロ。シドニー五輪を前にして約1割の候補選手が候補を外された中に馬軍団の選手もいたということもあって、馬軍団のドーピング疑惑が取りざたされましたが、選手の世界記録も世界選手権でのメダルも取り消されていません。

そうした疑惑に答えるためでしょうか、馬軍団の日常生活と練習風景がマスコミに詳細に公開されました。日本ではNHKが取材した1時間のドキュメンタリー番組が放映され、日本陸連から浜田安則コーチが特別育成選手だった市橋有里選手と市川良子選手を帯同して馬軍団の合宿に参加。その時の内容を含んだ馬軍団についての記事や研究がまとめられ、ベースボールマガジン社から『世界記録続出の軌跡—陸上競技中国馬家軍』という単行本で出版されました。

それから15年。馬俊仁コーチの身辺にも紆余曲折があり、氏は今は大連でブリーダー協会の副会長を務めているとのことですが、世界記録を続出した馬俊仁コーチのノウハウは、その後も中国スポーツ界に受け継がれているように思います。

馬俊仁コーチのノウハウの核心はどこにあるのか、今一度当時の資料をひもといてみたいと思います。そこには私たち市民アスリートにも役立つノウハウが見えてくるかもしれません。

月間1000kmを支えた食事の量と質の実体

路 京華氏<br>1952年、中国・北京生まれ。父は高名な老中医で代々医師の家系に育つ。中国中医研究院大学院卒業。中国中医研究院広安門医院客員教授。『中国漢方がよくわかる本』『免疫力』ほか著書多数、『中医内科学』監修等。現在は、中医学普及のために日本において講演、執筆活動に活躍している。
路 京華氏
1952年、中国・北京生まれ。父は高名な老中医で代々医師の家系に育つ。中国中医研究院大学院卒業。中国中医研究院広安門医院客員教授。『中国漢方がよくわかる本』『免疫力』ほか著書多数、『中医内科学』監修等。現在は、中医学普及のために日本において講演、執筆活動に活躍している。
馬軍団が大きな成果を上げるに至った最大のポイントは、選手が豊富な練習量を消化したことにあったと考えられます。

テレビによると、一般的に練習は早朝と夕刻の2回。それぞれ20kmのビルドアップ(4分30秒→4分)が中心。そして走った後に多少の筋トレが加わります。女子選手の練習量は、高橋尚子選手、野口みずき選手と月間1000km越えが珍しくなくなりましたが、当時はまだ月間1000kmを越える女子選手は日本にいなかったのではないかと思います。

この豊富な練習量を支えたのが、食事の質と量、そして昼寝もするという全生活をランニングに向けていた生活でしょう。

合宿に参加した浜田コーチは、「市橋も市川も食事量が少ない方ではないのに、中国の選手はその2~3倍食べた」と書いています。合宿を取材したNHKの男性記者も「自分の3倍ぐらい食べていた」と言っています。その内容は、脂肪の少ない各種の肉類と野菜を中心とし、種類は豊富だったようです。

話題になったのはスッポンと冬虫夏草だが……

しかし、馬軍団の食事に関して注目を集めたのは、スッポンと冬虫夏草でしょう。

スッポンは中国でもかなり高価な食材で、毎食というわけにはいかないようですが、食べるときにはちょっと入っているなんていうのではなく、4人に1匹分ぐらい使っていました。

冬虫夏草は菌類に分類され、漢方の生薬として使われるものです。ガンに効くと話題になったこともありますが、この珍しい漢方薬を広く知らしめたのも馬軍団でした。

この2種類だけがマスコミには派手に取り上げられたのですが、番組を見たり本を読むと、日本では漢方薬として扱われている生薬のスープを朝に晩に飲用しています。本当はこちらのほうが馬軍団の好成績と大きく関係しているように思えます。それはどのようなものなのか、代々の中医師の家に生まれ育った中医師(中国の中医学の医師)の路京華先生に解説していただきました。

生命力をコントロールする「腎」を補う生薬

ロバの皮を原料とする『阿膠』
ロバの皮を原料とする『阿膠』
馬軍団のテレビや本に登場する漢方素材には、前掲のスッポン、冬虫夏草の他に、朝鮮人参、阿膠(アキョウ)、麦門冬(バクモンドウ)、五味子(ゴミシ)、大棗(ダイソウ)などの名が見えます。これらはどういうものか、早速路京華先生に聞いてみましょう。

「スッポン、冬虫夏草には補腎の働きがあります。腎の働きを補うということです。中医学でいう腎とは、ヒトの生命活動や成長、生殖、泌尿、免疫などに大きく関与している働きを指します。これらはホルモン剤ではありませんが、ホルモンに似たような作用があります」


補腎で先天的な生命力の損失をフォロー

「腎の働きが弱ければ元気が出ません。ヒトの元気を生む源には遺伝的に受け継がれ持って生まれた先天的な生命力と、後天的に得る生命力がありますが、これらの食品や生薬によって後天的な生命力を強めると、持って生まれた生命力を充実させるわけです。

激しい運動は体力やホルモン系を消耗してしまいますから、こうした補腎薬でしっかり補っておかないと、疲労がたまったり故障を起こしてしまいます。スッポンは薬膳料理の食材にもよく使われるほど精のつく食材です。医食同源と言うことでいえば、薬と食品の間に仕切りはないわけですが」

筋肉や骨も「腎」がコントロール

補腎作用は、若さを保つ作用といってもいいわけですから、アンチエイジングの面からも注目されています。中医学では長く研究されているジャンルなので、体質別、症状ごとにさまざまな補腎の処方が開発されています。鹿茸(ロクジョウ)、海馬(カイマ=タツノオトシゴ)なども有名な補腎の生薬です。

子どもの先天的な成長・発育の遅れ、中年以降ホルモンが減少して筋肉や骨が弱くなるといった種々の老化現象の進行に対する処方としてよく使います。補腎薬には、参茸補血丸、海馬補腎丸、杞菊地黄丸などなど数多くあります。

体の機能を活発にする朝鮮人参

朝鮮人参
麦門冬
五味子
『生脈散』を構成する上から、朝鮮人参(オタネニンジン、ヤクヨウニンジンなどとも呼ばれる)、麦門冬(リュウノヒゲとかジャノヒゲと呼ばれる青い実をつける。ごく日常的に見つけられる)、五味子(韓国での夏の飲み物オミジャチャは五味子のお茶)
朝鮮人参は大量に合宿所に運び込まれていたというレポートが本に載っていました。朝鮮人参は栄養学的には、アミノ酸やサポニンが豊富です。

朝鮮人参は体の機能を活発にする働きがあり、心臓を強化する強心作用や心肺機能を高め疲労倦怠を改善したり、筋肉を強化する作用も消化吸収の働きを活発化する作用があります。消化機能全般の働きを活性化するという作用機序です。

女性アスリートに必須 「血」を補う生薬

「阿膠というのは、ロバの皮のことです。山東省の阿県の水で作ったものが一番質がいいことから、そのまま生薬名になりました。阿膠にはコラーゲンが豊富ですが、鉄分も豊富。中医学では補血薬に分類されます。女性には貧血症状の方が多いですから、女性向けの漢方処方によく入ってます。有名なのはやはり補血作用でよく使われる当帰(トウキ)とセットで処方されている婦宝当帰膠とか、膠艾四物湯など。

大棗はナツメのこと。大棗も鉄分が多いですから阿膠や当帰と一緒に使われます。生理の後は相対的に貧血になりますが、そんな日常において大棗と阿膠を一緒に蒸してよく食べます。薬を飲むという感じではなく、食べるという感じですね」

体に必要な体液を保つ「陰」を補う生薬

「麦門冬は体に潤いを保つ働きがあります。五味子には収斂作用という、引き締める働きがあります。体液を消耗して、肌にカサカサとした乾燥感がある時によく使います。激しい運動によりだらだらと汗をかきすぎて脱水症状を起こすことがありますが、そうしたことを防ぐために使います。麦門冬と五味子は、中医学で言う『陰』と呼ぶ体液(津液)をコントロールするわけです」

温暖化対策から生まれた処方「生脈散」

大棗はナツメのこと。鉄分が多い
大棗はナツメのこと。鉄分が多い
本の中に、馬軍団が常用しているスープとして「朝鮮人参+麦門冬+五味子+大棗と鶏」のスープが登場します。

「朝鮮人参+麦門冬+五味子は、『生脈散』という有名な処方で、13世紀金元代にできたものです。中国では気候が温暖化し、多くの人々が大都市に集まったために、発熱を主症状とする感染症が増えました。これを研究し『温病学』という分野が発展しました。中医学のバイブルの『温病条辨』という本には、夏の暑熱時期、口渇、多汗、動悸、心臓が苦しい、呼吸が荒くて喘息気味の時に生脈参を使うと記載されています」

つまり熱さに対する耐久力が不足して倒れる人(例えば「熱中症」なども)、汗がたくさん出て脈が弱くなったときに、文字通り脈を生じて元気づける処方として開発され、以来暑い夏対策にごく一般的に服用されています。中国ではドリンク類もあって、「薬」という認識のされ方ではないようです。

「夏には、暑さによる汗のかき過ぎによる体液減少(陰虚)と食欲不振によるエネルギー不足(気虚)が重なりやすいのです。この状態を『気陰両虚』といいますが、まさに生脈散はトレーニングによる疲労対策に向いた処方であるといえます。今また地球の温暖化が始まって、現代においても活躍している処方です」

アミノ酸の補充も考慮している

さらに馬俊仁コーチの工夫が巧妙なのは大棗と鶏を加えていることです。大棗は鉄分豊富で養血作用があります。女性アスリートは特別に多くの鉄分を取らなければなりません。阿膠だけでなく、ここにも大棗を加えているわけです。

そして鶏です。夏バテ対策のおすすめ薬膳に冬瓜と鶏のスープがあります。冬瓜には体を潤す一方、体の水分代謝を促進するための利尿作用もあります。暑いからといって水分を摂りすぎると、水分の代謝が悪くなり体が重だるく感じます。高温多湿の気候ではよくなりがちです。

鶏をアミノ酸BCAAで代用して実験中

アミノバリューと生脈散(麦味参顆粒)
アミノバリューと生脈散(麦味参顆粒)で馬軍団に迫る
また、中国では出産後の妊婦の疲労回復に鶏がよく使われます。鶏肉は脂身が少ない優秀な動物性タンパク質。アスリートの栄養補給に必須アミノ酸BCAAが必要なことは最近になってよく知られるようになり、アミノバリューなどBCAAサプリメントの有効性が認識されてきていますが、馬俊仁コーチのスープでは、鶏肉がアミノ酸補給の役割を担っているように思われます。

生脈散+アミノ酸BCAA顆粒でテスト

私も夏には十年来、生脈散をエキス顆粒化した製品(日本での商品名は「麦味参顆粒」など)を愛用していますが、この原稿を書くために本を再読してちょっと試している服用法があります。それは、生脈参と一緒に鶏の代わりにアミノ酸BCAAの顆粒サプリメントを摂ることです。なかなか鶏を煮込んだスープを練習後すぐに飲むというわけにいかないのですが、顆粒のアミノ酸BCAAサプリなら簡単に飲めます。生脈参+アミノ酸BCAAサプリでこの夏の疲れがこれまでの夏の疲れとどのように違うのか、楽しみにして自分の体で実験を始めました。

中国の五輪代表選手がどのようなサプリメントを摂っているのかわかりませんが、いずれいろいろと聞こえてくると思います。その中には、馬軍団の経験を礎にした飲み物がきっとあると思います。

北京五輪は暑さとの戦いになるでしょう。地の利と漢方の伝統を背景に中国選手は有利に戦いを進めるに違いありません。日本人選手にせよ他の外国人選手にせよ、それに対してどのように立ち向かうのか、それは北京五輪の見所の一つになるのではないかと思います。



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