荘則棟氏
身振りを交えて講演する荘則棟氏
「日中交歓卓球大会実行委員会」(泉里志代表)の主催による伝説の王者・荘則棟氏の講演会が10日、東京SC卓球場で開かれた。この講演会は、二つの点で意義深いように思える。

伝説の王者を市民愛好者が招待

ひとつは、世界卓球選手権3連覇という偉業を成し遂げ、「ピンポン外交」の主役ともなった荘則棟氏が、その体験を卓球ファンに直接語りかけたという点。もうひとつは、この講演会を主催した「日中交歓卓球大会実行委員会」(泉里志代表)が、市民レベルの卓球愛好者による有志団体であるという点である。

荘則棟氏は1940年8月、中国の揚州で生まれ、北京で育った。8歳で卓球をはじめ、1956年に北京市のジュニアの部で優勝。1961年、1963年、1965年と世界選手権の男子シングルスで3連覇を達成し、建国後の国民的英雄となった。

33歳という若さでスポーツ大臣に就任したが、1976年に江青(毛沢東夫人)ら「四人組」が逮捕されると、それに加担したとして大臣を解任され、4年間投獄された。その後、山西省のコーチなどを経て、2002年12月、「北京荘則棟・邱鐘恵国際卓球クラブ」を設立し、選手の育成に当たっている。

中国選手団のバスにアメリカ選手が誤って乗り込んだことが……

荘則棟氏は、「若き日の自分にとって日本選手が先生だった」と話し、現代卓球の中心的打法となっているドライブを創造したことを絶賛した。とりわけ世界選手権のシングルスで2回優勝した荻村伊智朗氏(1954年、1956年)、田中利明氏(1955、1957年)が出演した「日本の卓球」という映画に刺激を受けたことを披露し、荻村、田中両氏の「門に入っていない弟子」と自らを語り、練習方法を学んだと話した。

また、1971年世界選手権名古屋大会が「ピンポン外交」の舞台となったが、それは中国選手団のバスにアメリカ選手が誤って乗り込んできたことがきっかけだったことを披露。当時、中国には「アメリカ人とは話しをしてもいけない」という規律があり、チームメートからも反対されたにもかかわらず、荘氏がそのアメリカ人に話しかけたことがすべての始まりだったことなどを話した(「ピンポン外交」については次ページに主な講演内容を掲載)。

荘則棟氏の指導
ユーモアたっぷりに指導をする荘則棟氏(右)
約1時間の講演のあとは、会場に訪れたファンへの実技指導をおこなった。荘則棟氏はインパクトの強さを出すための指の使い方や、「顔の前で風が起こるように」といったスイングのコツなどを指導した。

この荘則棟氏の講演会のほか、前日の9日には横浜文化体育館で「第1回草の根版日中交歓卓球大会」が開かれた。当日は上陸時「史上最強」という台風22号が横浜市を直撃したにもかかわらず、日本人と中国人がほぼ半数ずつ、約300人が集まり、団体戦などで交流を深めた。

今回のビッグイベントを企画した「日中交歓卓球大会実行委員会」は、江戸正人事務局長が結成したクラブチームのメンバーが中心。いわゆる一般の卓球愛好者たちだ。中国から帰化した泉里志代表の人脈などをベースに、日中両国の代表選手として活躍した羽佳純子さんらの協力を得て実現にこぎつけたという。

1956年の世界卓球選手権東京大会に、建国7年目の中国が参加したことに始まる日中の卓球交流。それは国交のなかった日本と中国において、文化・スポーツを通じて初めての交流となった。再来年の2006年は、両国の交流開始からちょうど半世紀の節目を迎える。実行委員会では、「スポンサーなどの協力者を募りながら、今後も日中の愛好者が交流できるイベントを考えていきたい」としている。
荘則棟氏の「ピンポン外交」に関する主な講演内容は次のとおり。

荘則棟氏講演
目をつむり、回想しながら話す荘則棟氏
……「文化大革命」によって、中国は2回の世界選手権(1967年、69年)に出場しませんでしたから、1971年の世界選手権名古屋大会は中国にとって3大会ぶりの参加でした。その前年に、後藤?二先生(当時日本卓球協会会長)が中国を訪れ、中国チームの出場のために尽力してくださいました。大会に参加するにあたって、周恩来総理からは「友好第一、試合第二」という言葉がありました。

日本の受け入れ態勢はとても素晴らしく、宿泊するホテルや移動のバスも中国専用のものを用意してくださいました。ある日、私たちがバスに乗って試合会場の体育館まで移動するときに、ひとりの外国人が慌てて飛び乗ってきました。乗ったのはいいが周りが全員中国人だったことに驚いたようで、すぐに降りようとしたのですが、ドアが閉まり、バスは発車してしまいました。そのとき、降りようとして彼が振り向いたときに、背中に「USA」の文字が見えたのです。

そのアメリカ人の選手は10分間ほど黙ったまましゃがみこんでいました。そのあいだ、私はバスの一番後ろの席に座りながら、このアメリカの選手に声をかけるべきかどうか葛藤していました。というのは、当時の中国には「どこの国の選手と話をしてもよいし握手してもよいが、アメリカの選手とだけは接触してはいけない」という鉄の規律があったからです。しかも、外国人と接した人間はスパイ扱いされるという、文化大革命の真っ只中だったのです。

友好第一なら、声をかけてもいいだろう……

しかし、私はこう考えました。今回は周恩来総理から「友好第一、試合第二」という指示があったわけで、友好ということを考えれば彼と話をしてもいいんじゃないか、と。あと5分で会場に到着するというときに、私は心を決めてアメリカ選手のもとへ歩き出しました。すると、仲間から「どうするつもり?」と聞かれました。「あのアメリカの選手に声をかけようと思う」と言うと、周りのみんなから反対されました。でも、彼は選手であって、政治の人ではないわけです。

私はバッグのなかからお土産を取り出して、アメリカ選手のもとに近づきました。そして「アメリカの選手と中国の人民は友だちです」と言って、彼にお土産を渡し、握手をしました。すると、そのアメリカ選手は「中国選手がいい試合をしてくれることを祈っています」と言ってくれました。ちょうどそのとき、バスが到着したのです。

バスは大勢の報道陣に囲まれ、写真を撮られました。翌日の新聞に「中米接近」という見出しとともに大々的に取り上げられました。その記事が出たあと、アメリカ代表団のハリソンという副団長が中国のホテルを訪れ、「この大会が終わったら、アメリカチームを中国に招待してほしい」という申し出がありました。それを中国の外交部に伝えたところ、外交部では「まだ時期が早い」として無理だと判断し、その報告書を受けた周恩来総理も同意しました。

ところが、私とアメリカ選手との記事を見た毛沢東主席が、「報告書を持ってきなさい」と言いました。「アメリカの卓球チームを中国に招待しよう」と言い出したのです……。

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