上記ページに図解されていた通り、新サービスルールの最大のポイントは、
トスを上げてからインパクトするまでの間、ボールとネット両端のサポートを結ぶ「三角形」の中に、レシーバーの視界をさえぎるもの(腕、ユニフォームなど)を入れてはいけない、
ということになる。
ルール自体は、さほど難しいものではない。早い話が「ボールがレシーバーにはっきり見えるようにサービスを出せばよい」のである。だが、上手く出すのはなかなか難儀だ。

「レシーブはやりやすくなったけど、中国の選手はサーブが得意だから、影響は大きいと思いますよ。中国は伝統的に5球目で終わりのやり方ですから。
フォアサーブの次の3球目攻撃のときの動きに影響ありますね。フリーハンドをどういうふうにしたらいいか、自分も経験ないからわからないです。みんな同じだから、しょうがない部分もありますけど、もう何十年、一生懸命フォアサーブの練習したから、きつい部分もありますよね」

フォアサービスの場合、フリーハンドを三角形の中から「よける」という動きが必要になるため、3球目攻撃に備える際のリズムが狂いやすいからだ(写真上は金擇洙のフォアサービス)。
一方、バックサービスの場合、構えの時点ですでにフリーハンドが三角形の中から外れているため、自然な動きの中でサービスを出すことができる(写真下は佐藤利明のバックサービス)。

かつて活躍した日本のペンホルダー選手の大半は、バックサービスを武器としていた。私の記憶の映像なので不確かな部分はあるが、それらのほとんどは新ルールでも違反にならないはずである。
特に、いま日本ナショナルチームを率いている宮崎義仁監督はバックサービスのアップダウンの名手として世界の強豪たちを震撼させ、1985年の世界選手権イエテボリ大会では、団体で銅メダル、シングルスでベスト8という実績をお持ちの方である。
日本卓球協会は速やかに宮崎監督の「バックサービス講習会」なり、「解説ビデオ」なりの企画を立て、実行するべきだと考えているのは、私だけだろうか。
ところで、サービスが有効か否かを判定するのは誰なのか。審判、なのである。言うまでもない。至極当然だ。審判以外に誰が判定するのか。しかし、皮肉なことに、この極めて真っ当な判定方法が、混乱を来たす火ダネとなりかねないのだ。
スーパーサーキットのように、主審、副審の2人がジャッジをする試合でルール違反のサービスを出した場合、いきなり「フォルト」が宣告され、失点となる。ただし、現時点では、新ルールを試験的に導入しているため、例外的に注意が与えられている。注意されることもあるのは、審判が1人の場合で、最初の1度だけである。
スーパーサーキット開幕初日に行われた18試合のうち、新サービスルールに違反するとして、選手に「注意」が与えれられたケースが3回あった。そのうち2回の注意をした国際審判員は、いずれのケースも「フリーハンドが(三角形の中に)残っているように見えた」からだという。
しかし、私の素人目にすぎないが、ほかにも注意を与えられてもおかしくないサービスはあったように見えた。その点を口にすると、
「うーん……微妙なのはたくさんありました。ただ、初めてなので、あまり厳密にはジャッジできなかったかもしれません」
開幕戦のジャッジを務めたのは4人の国際審判員だったが、注意を2回与えた審判員をして「ためらい」があったという。試験的とはいえ、新ルール導入初日の注意が3回という少ない数字に収まったことの、審判員によって判定基準にバラツキがあるように感じられたことの、理由の一端が透けてみえる。
やむを得ない、と思う。
ご存知のように、卓球の審判はネットの延長線上に位置している。その位置からだとサーバーをだいたい「斜め」から見ることになるが、レシーバーは卓球台を挟んでサーバーと向かい合っている。すなわち、審判とレシーバーとでは、サーバーを見る角度が大きく異なるのだ。
ジャッジを見守った東京卓球連盟の三沢佳紀審判委員長は言う。
「サービスを出す位置や構えによって見え方がかなり違う。現時点では完璧なジャッジをするのは難しい」

新ルールとはいえ、国際審判員をして判定基準を模索している状態である。「選手」が審判を務めることの多い地域レベルの大会はどうなってしまうのか。想像するのは、さほど難しいことではない。
各コートに審判員を配置するだけの人的、経済的余裕のない地域レベルの大会では、参加している選手が審判を務めることが多い。リーグ戦の場合は試合のない選手(チーム)が審判になり、トーナメント戦の場合は試合に負けた選手が審判を務める「敗者審判」で、運営のやり繰りをしているケースが一般的だ。
このシステムが混乱を来たす火ダネとなりかねない。
審判員の資格を持たない人間がジャッジを下すのである。
もちろん、それでもそのシステムが機能してきたではないか、という意見もあるだろう。だが、それは卓球のルールが比較的「白黒」のはっきりしたものだったからだ、と思うのだ。
過去の世界選手権の結果をみても明らかだが、サッカーなどでしきりに強調される「ホームアドバンテージ」が、卓球にはほとんど当てはまらない。強い者が勝っている。ルールに「解釈」の入り込む余地の少ない何よりの証左である。
乱暴を承知でいえば、誰が審判を務めても結果は変わらないと思われるほど、卓球はすぐれた判定マニュアルを備えているのである。それが、崩れかねない。

しかし、今回の場合、事が事だ。見えた、見えないという極めて個別的な感覚を判定しなければならないのである。しかも、視線の角度がおよそ「45度」違うのだ。
決まりごとを順守することに類いまれな能力を発揮する日本人は、一方で、責任の伴う判断を委ねられることが恐ろしく不得手である。日本人の気質を考えたとき、審判をする選手がたまたま審判員の資格を持っているという僥倖にでも恵まれない限り、「レット(やり直し)」などという判定が下されかねないような気もする。
誤解を恐れずに言おう。「誤審」はあっていいのだ。
人間という不完全な存在が判定する限り、誤りは常につきまとう。逆にいえば、人間に判定を委ねているということは、間違うこともあることを前提に、それでもその判定を尊重してゲームを進めていこう、ということなのである。そうでなければ、卓球というスポーツは成り立たない。
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