プロレスファンの常識も素人には非常識

[序論]プロレスは難しい。

他のスポーツ競技とは違い、単純な勝ち負けでは括れない幾つもの評価指標が存在するからだ。

もちろん、世のスポーツ競技において、勝敗を超えた試合内容にスポットが当たるケースは無数にある。だが、どんな名勝負が行われたとしても、その根底にある“試合に勝つこと=強い”という評価軸がぶれることはないだろう。

では、プロレスにおける“強い/弱い”とは何だろうか?

戦いとはいえ、本来持つ“強さ”とは別のところで、選手の格や人気が、あるいは進行中のストーリーラインが勝敗を決めてしまうことだってある。いや、むしろ、その方が多い。

では、プロレスラーが持つ“強さ”とは何だろうか?

ケンカなのか、総合格闘技なのか、武術になるのか。はたまた関節技の極めっこ。現代でいうところのグラップリングになるのか――。

その定義を定めるのは、また別の議論になりそうだが、一つ言えることがある。もはや周知のことだが、プロレスという世界に限っては、試合に勝つこと=すなわちリング上での強さと、道場での強さは必ずしも一致しないということだ。

その一方でプロレスラーに対し“うまい/へた”という評し方を使れることが多くなってきた。

“強い/弱い”とはまた異なる“うまい/へた”とは何だろうか?

受身なのか、試合運びなのか、“間”といわれるものなのか。はたまた、芸能人やほうきが相手だったとしても見事に試合を成立させることなのか――。いずれにせよ漠然とした感は否めない。

例えば、これがサッカーであれば「この選手はドリブルがうまい」。ゴルフであれば、「この選手はアプローチがうまい」。明確である上、その先には“そのドリブルやアプローチによって試合に勝つ”=“だから強い”ということになり、あるべきベクトルは同じ方向を指している。

もし、貴方がなんら予備知識のない初めて観戦する家族や友人、恋人と一緒にプロレスを観たとしよう。Aという選手が居たとして、貴方はこのAという選手を何と紹介するだろうか?

「Aは強いよ」、「Aはうまいよ」、「Aは“本当は”強いよ」。

プロレスファンというフィルターを通せば許される業界文化や指標も、素人から見れば、ただの違和感でしかない。

プロレスの魅力はいつだって現実(リアリティ)と幻想(ファンタジー)の境目に

試合に勝てば、強いということになるのか?
アクロバチックな受身を取ったら、うまいことになるのか?

トップといわれる中には、圧倒的な勝ち星を持ちながらも、レスラーと呼ぶに相応しいとはいえない身体やコンディションでリングに上がり続けている選手も増えた。でも、試合に勝つのだから、プロレス素人からみれば強いことになるのだろう。

鍛え抜かれた身体を持つバリバリの若い選手であっても、メタボのような中年レスラーに敵わないという現実。「これがプロレス」。こういわれればそれまでだが、そんな理屈が素人に通じる筈はない。強いにしても、うまいにしても、根本的な説得力を伴わないのだから、そんな釈然としない世界に誰が興味を持ってくれるのか。

大事なことはやっぱりバランスなのだろう。リアリティのないプロレスに説得力は伴わないし、ファンタジーも広がらない。プロレスの魅力はいつだって現実(リアリティ)と幻想(ファンタジー)の境目にあった。どちらが欠けてもプロレスは成立しない。にも関わらず、昨今のプロレス界からは“リアリティ”ばかりが欠落していくように思える。

要するに、強いも弱いも、うまいもへたも、既に大前提が崩れているのだ。

話を変えよう。

例えば、ラリアットなどの攻撃に対し、一回転に横捻りを加えて受身を取る選手がいる。業界的には“受けがうまい”と評される選手だ。

ただ、何かの衝撃に対して、そのような反動が生まれることはあり得ない。すなわち、そこにリアリティは存在しない。

その一方で、プロレスがへたといわれる選手がラリアットを受けた。きれいな受身は取れず、不格好で崩れ落ちるように倒れていく。受身はへたかもしれないが、これが極めてリアルな姿だろう。

現代のプロレス界に求められるは前者か後者か――。

強いレスラーって何が強いの?
うまいレスラーは何がうまいの?

リアリティの崩壊したプロレス界、レスラーが持つべき、あるいは、表現すべき“強さ”や“うまさ”をもう一度考えてみよう。そして、かつて我々が愛し熱狂した時代を歩んだ偉人達の話を聞いてみようと思った――。

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