大道塾=空道という体制は是か?

藤松泰通
北斗旗の頂点に返り咲いた藤松。しかしその闘いぶりには、空道の王者と呼ぶに足る“何か”が欠けていたように思える
空手から進化したアマチュア総合格闘技「空道」の頂点を争う、北斗旗無差別級大会が、11月27日代々木第二体育館で開催された。以前にも僕はこのオールアバウトの記事の中で、空道をオリンピック競技化可能なアマチュア格闘技の最右翼としてを取り上げている。それはとかくプロイベント偏重に傾きがちな現在の日本の格闘技の現状の中で、頑なまでに「競技性」と「アマチュア」であることにこだわった空道の姿勢が、その抑止力として機能するのではないかと考えたからでもある。

現在大道塾はNPO法人として「国際空道連盟大道塾」を設立、“開かれた競技としての空道”確立に乗り出している。方向性としては非常に正しいし、アピールの仕方を間違えなければ、アマチュア競技として非常に魅力的な舞台になる可能性があると思う。

ただ、今回の大会を見た限り、やはり「大道塾」という“一流派”の色合いがまだまだ濃いなという感想を持った。オープントーナメントという形式ではあるものの、出場選手の大半は相変わらず大道塾の選手で占められており、審判員もざっと見たかぎり外部の人間は参画していないようだ。アマチュア競技の広がりを考える上では、この“党派色”はどうしても気になる。

昨年の無差別は、ディファ有明という一回り小さな会場での開催ということもあり、満員の会場の熱気が選手の背中を押す、いい大会になっていたと思う。だが、今年、“聖地”代々木に戻ってみると、客席はガラガラという考えられない状況が待っていたわけだ。この動員状況は、明らかに以前の無差別と比べても低調だったと思う。当然アマチュア大会である以上、プロの営利団体のように観客動員でその成果をはかられる必要は無い。だが、かつて総合格闘技ムーブメントの中心的存在であったこの団体が、ここまで一般の格闘技ファンの興味の埒外になってしまったのかと思うと、“危機”状況であると言う他ない。たまたまファン層の重なるであろう新極真の全日本大会と日程が重なったという要素はあるにせよ、塾生以外の外部の格闘技ファンが、北斗旗に対する興味をもっていない状況は、間違えなくこの「競技」の死命を制する大問題だと言うべきだろう。

また、これは後述するつもりだが、内容面でも欠場明けの藤松泰通の独走を許した事も、僕には、大会に大道塾以外の勢力が存在しなかったせいだと思えてならない。昨年、一昨年と優勝戦線を揺るがした空柔拳会館のアレクサンダー・ロバーツはプロに転出。北斗旗は“卒業”と宣言している。本来、彼個人は藤松との決着を望んでいる部分もあったが、昨年の準決勝で優勝者の山崎進(大道総本部)との一戦で味わった“アウェイ判定”には若干承服できない部分が残ったようで、「北斗旗では外の人間は勝たせてはもらえない」と、今年の参戦を見送っている。

実際、公式審判員のほとんどは大道塾内部の、支部指導者陣であり、外部の選手に点が辛い。(自らの担当試合を離れた審判員が、自分の支部の選手の試合で激を飛ばしている光景は、大会の中で珍しいものではない。)無論、山崎vsロバーツ戦での判定が、圧倒的な山崎贔屓に傾いたとは僕は思わない。ただ外部選手にすれば、やはり“歓迎されていない”敵対的空気の中での試合はやりにくいだろうし、明快な差のない勝負を判定で“切り捨て”られたという意識は、結局その“場”への不信として残る。名勝負必至であった藤松vsロバーツが結局こういう形で実現せずに終わった状況を思うと、やはり今後審判陣にも「大道塾」の、ではなく「空道」の理想に準じる無色中立の布陣を整える事が急務ではないかと思われる。

“外部の血“が求められる訳

いずれにせよ、組織として「北斗旗=大道塾内部の大会」というイメージを持たれ続ける限り、「空道」が「柔道」や「レスリング」に並ぶ一般的な競技にはなることはできない。当然二十数年の歴史を背負った組織が急速に変わる事は難しいと思うし、そこに凝り固まった理想主義の石を投げるのは意味が無いと思う。

ただ、第二回の世界大会という大舞台を一年後に控えた今、そろそろ「空道」と「大道塾」の組織を明確に切り分けて、外部の競技者がよりニュートラルに参加できる環境づくりに着手して欲しい気がする。北斗旗大会が「大道塾主催のオープントーナメント」ではなく、「競技の頂点を争う場」になるのが「空道」の発展にとっては理想形であると、僕は思う。

これは若干余談になるが、一時期極真から独立した元世界チャンピオンの数見肇選手が、北斗旗に参戦するのではないかという噂が流れたことがある。真相は、ある専門誌に総合格闘技の練習を行う数見選手の姿が掲載されただけのことではあったのだが、空手家が総合スタイルに挑戦する舞台として、プロイベントではなく、まず北斗旗が想定されたという事は決して悪い事ではない。。武道空手の理想を追求して大道塾を立ち上げた東塾長の理想に、ようやく外部からの同調者が現れ始めたということなのだから。本来なら歓迎し、積極的に誘致交渉に動く事があってもよかったのではないかと思うほどだ。

だが、現時点でそういう動きはないようだし、当然数見道場から北斗旗に選手参加と言う動きは起こっていない。

「大道無門」という言葉を(理想に向かうには一定の門は必要ない。万事を受け入れる姿勢が、大悟に向かう方法だと説く仏教用語)を理想に掲げたのが「大道塾」のルーツである。外部の選手の参戦にハードルがあってはならないのではないか。

本来、数見肇はもちろん、総合武道を提唱して京都に道場を開いた元正道会館の佐竹雅昭なども、思想的には十分空道の同調者になりうる可能性をもった選手のはず。彼ら、あるいは彼らの門下生が北斗旗に参加し、「空道」という競技を追求する姿を僕は夢想せずにはいられないのだが、所詮それは儚い夢でしかないのだろうか。

藤松の“新しい組み手”に見た不安要素

さて、競技フィールドに目を移そう。
大会前の僕個人の心づもりでは、勝敗の如何に関わらず、頭部の負傷を克服し、一年半ぶりに現役復帰を果たした、エース藤松の復活を手放しで絶賛したいと考えていた。だが、実際の試合内容を見て、その考えは保留せざるをえなくなった。

結果としては、藤松の圧倒的な独走で終わったのだが、今回の彼の試合運びは、“巧妙”で“よく考えられたもの”ではあったが、けっして“強さ”を発揮したものではなかったからだ。これが「空道」のチャンピオンとして理想的な試合であったと称揚するには、やはりためらいが残る。

試合内容はほとんど危なげなかったし、優勝という結果は文句なしといってもいい。だが、どうしても絶賛する気にはなれない。ただ、「藤松が復帰しました、勝ちました」という表面をなぞってもこの大会をレポートした事にはならないと思うからだ。

まず、何よりこの大会には“競争”がなかった。
いや言葉を変えよう。
“凌ぎ合い”が無かったのだ。

2001年の世界大会以降、山崎、長田、清水ら現役トップ組に対し、彼らを脅かす外的要因が現れ、それを克服するための戦いが北斗旗の軸となってきた。

あのセーム・シュルトを彷彿とさせる、空柔拳会館アレクサンダー・ロバーツが侵攻してきた無差別。あるいは長田、コノネンコといった歴戦の勇士が現役組を脅かした体力別。いずれも火の出るような意地のぶつかり合いが繰り広げられ、イデオロギー闘争ともいうべき戦いが繰り広げられた。

だが、この大会にはそれがなかった。
「この戦いが空道である」「北斗旗は渡さない」
そんな気持ちのぶつかり合いがどこにも見られなかったからだ。

「藤松は自分の組み手を工夫してきていたし、それは褒めたいと思う。しかしその藤松を追い込めなかった他の選手は問題だと思う。」という東塾長の大会後の講評の言葉があった。字義どおりに受け止めれば、“復帰したばかりの藤松に独走させるようではダメだろう“という解釈になるが、実際の東塾長の憂慮はさらに深い部分にある。

「世界」との戦いを目前に控えて

「頭を怪我して、不安を背負ってああいう組み手になったのはわかるんだけど、じゃあ世界大会でロシアの連中と撃ち合ったときに、“あれ”が通じるとは思わないんだな」

この東塾長の言葉に如実に現れているように、藤松が“工夫してきた新しい組み手”の発想自体に、脆さがあることは否めない。さらに言えばそんな藤松を倒す事ができなかった五十嵐、稲田ら主力陣の不甲斐なさは、そのまま世界大会での日本代表への不安も意味する。

だが、藤松自身が優勝直後に語ったコメントは、東塾長の憂慮とは対照的であったりする。

「今回の試合では、相手の攻撃を一発ももらわずに倒すかということを考えて戦いました。それもできるだけ寝技には頼らずに勝てるかを試したかったんですけど、さすがに上に行くとそうは行かない部分があって、結局寝技に行っちゃいましたけど、もっと今の形を完成させたいですね。それが自分の課題だと思います」

これまで常に「倒すか倒されるか」というギリギリのド突き合いを演じて来た選手の発言としてはあまりに寂しい。ノーガードの無意味なパンチ合戦を称揚する気はもちろん無い。頭部負傷と言う、選手生命に関わる大きな怪我を負った選手としては、むしろ当然といってもいいファイトスタイルの変更だと思う。

だが自らは一切相手の攻撃を受けず、相手の一瞬の隙を見抜いて、カウンターの一撃必殺で倒す、という今回の藤松の発想は決して実戦的なものではない気がする。むしろ中国拳法など、伝統武術のファンタジックな領域に接近してしまったのではないかとすら思うほどだ。

来年に控える世界大会で、スタミナ、瞬発力共に爆発的なものを持つロシア勢のラッシュに晒された時に、この中国拳法的な“仙人組み手”が通じるとはどうしても思えない。まして現在の藤松は復帰前の体重から20キロ減量し、パワーを失っている。「世界との戦い」の前に大きなハンデを背負ったと言っていいだろう。

実際、この大会でもボディ打ちを“実験”している最中に、その下げた頭部を稲田の膝蹴りで迎撃されたシーンがあった。あの攻撃がさらに力強く、執拗なものであったら、果たして藤松は決勝に進めたかどうか。相手が同じ軟投型の稲田であったからこそ、切り抜けられたシーンであろう。もし相手が今回出場していない昨年優勝者の山崎や、体力別で軽重量級を制したコノネンコであったなら、藤松はそこで踏みとどまれたかどうか、いささか疑問だ。

格闘技に限らず、大きな故障を抱えたスポーツマンは、復帰後もその箇所を無意識に庇ってしまうために、以前のフォームを取り戻せなかったりするものだ。藤松当人は完全復帰のつもりで居ても、やはり頭部の負傷に対する不安がどこかに残っているのではないだろうか?

最初、僕はこの大会に、外部の勢力の侵攻が無かった、と書いたが、ある意味藤松の“仙人組み手”がそれであったという見方もできる。かつて正面激突の権化であったような彼が、休場期間にそのポリシーを変質させ「省エネファイト」を旨とする異質の選手になったのだとすれば、大道塾の選手達は今回それを“異物”として、藤松を徹底的に叩きつぶさねばならなかったのだ。

冒頭にも書いたが、格闘技界は現在プロ一極集中によって「バリエーション」を失いつつある。一つの色に塗りつぶされた世界からは新しいものは生まれないし、一つの価値観というものは頂点を極めれば、後は衰退していくのみである。いくつかの勢力が軒を競い、さまざまな試みを繰り返す中で、競争を展開しない限り、どんな素晴らしいものも衰退して行く。これは競技場の中、外を限らない普遍の真理であろう。

「空道=大道塾」の体制的問題も、そして藤松の独走も、結局「外部」との擦れ合って成長すべき段階にある「空道」が、逆に内向して身内だけの競技になってしまっているという矛盾の現れと映った。今やプロへプロへと草木のなびく格闘界にあって、アマチュアの牙城となっている大道塾/空道だからこそ、あえてこの問題をなおざりにしてほしくはない。この日の北斗旗に鳴り響いた二つの警報は「空道」にとどまらない、格闘スポーツ界全体の根幹を揺るがすような問題と考えるべきなのだ。

外部に対しては、ニュートラルな立場の本格的な「連盟」としての自立を、そして内部に対しては、いかなる外敵が出現しようとも十分迎え撃てる「大道塾」としての強さの確立を目指すべきであろう。

ぜひ、来年五月の北斗旗体力別大会までに、軌道修正された方向性が提示されん事を切に祈りたい。

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