■プロレスと格闘技と幻想と

さて、前回は、アントニオ猪木という希代のトリックスターについてお話しましたが、もう一人、昭和の格闘技黎明期を語るうえで外せないのが梶原一騎の存在でしょう。

マンガの原作家であった梶原は、原作デビュー作「チャンピオン太」からプロレスをテーマにするなど、スポーツ物、特に格闘技を得意としていました。それだけではなく実際にジャイアント馬場、アントニオ猪木や極真空手総帥大山倍達らとも交流があり、彼等を主人公にした虚実ないまぜの格闘技マンガを描き続けました。そのなかでも、大山倍達を主人公にした「空手バカ一代」は“超人追及”というテーマでフルコンタクト空手志願者を大量に生み出したと言われます。

彼の描いた物語は、闘う事に取憑かれた人間の魂を徹底して賛美した世界で、決してリアルな物ではありません。(実際、「あしたのジョー」の作画を担当したちばてつやなどは「このエピソードは現実的ではないので書けません」と突き返した事があったといいます。)しかし、というか、だからこそ、梶原の書いた世界はフェイクでも演技でもない、リアルな格闘技への希求をファンに植え付けてしまったのでしょう。本来、リアルでは無いものを通して、リアルな物への憧れを産んでしまうという現象は皮肉でもあり、必然でもあるような気がします。

ともあれ、梶原一騎というトレンドセッターの出現を得たことは、確実に猪木の推進する「過激なプロレス」の路線には追い風になりました。より迫力の有る闘いを求めるファンの気持ちの受け皿になりうる物は他になかった時代のことですから、ファンは必然的に猪木の一挙動一投足に注目するわけです。ただそれゆえに、ファンは普段のプロレスの試合にまでその充実感を求めるようになります。しかし、年間100試合近い興行をこなさねばならないプロレスラーの実情はそれを許しません。

結局猪木の言動や梶原の描いたファンタジーがそのすき間を埋めていくという構造が出来上がった訳です。


■梶原&猪木共同体とカール・ゴッチの遺児たち=UWF

しかし、人は一回見た夢を忘れる事は出来ません。
それどころかよりリアルで、奥深い世界を求めてしまうものです。そうした波の高まりを受けて、格闘技的価値観と技術に歩み寄ったプロレスのスタイルを模索したのが、UWFという団体です。

猪木が新日本プロレスを旗揚げするにあたって、「ストロングスタイルプロレス」の理念的よりどころにしたのは、カール・ゴッチという異端のプロレスラーでした。ドイツ出身で非常に理想主義だった彼は、異常に技術にこだわった異端のプロレスラーでした。

それゆえに、ヒロイズムとショーマンシップが支配するアメリカのプロレス界では出世することが出来ませんでしたが、真の意味での強さにこだわるその姿勢は、知る人ぞ知る孤高のレスラーとして彼を伝説化していきました。猪木は彼を旗揚げ戦に招いて、肌を合わせることでそのイズムへの共感を世に示しました。その後、新日本の顧問的存在となったゴッチの元へ、猪木は藤波辰巳を始め、新日本プロレスでも特に目をかけた才能の有る若手レスラーを送り込みます。

こうしてゴッチの薫陶を受けることになった、佐山聡、藤原義明、木戸修、前田日明、高田延彦といった元新日本プロレスのメンバーたちは、猪木の思惑以上の理想主義を胸に抱くようになります。それは自分たちの試合のベクトルをより格闘技的ニュアンスを強めた「打・投・極」の技術に置いたプロレスであり、より過激で迫真的な格闘技方向への接近でした。

UWFと言う団体が生まれたのには、TV局の放映権や猪木の借金問題などいろいろ生臭い問題も介在したのですが、基本はより理想的なプロスポーツを目指すゴッチイズムを受け継ごうとした、彼等若きレスラーたちの理想主義にあったことはまちがいありません。
■流浪の天才・佐山聡とシューティング

天才肌で、どこか透徹した世界観を持つ佐山は、ゴッチの弟子たちの中でも特に最左翼に属する理論家でした。

ところが、あまりに抜群の反射神経と運動能力を持っていたために、新日本プロレス時代、梶原一騎原作の人気プロレス漫画「タイガーマスク」のリアル版をやるという事になってしまったのです。今考えると「虚構を現実にする」という意味で、この任務は彼にうってつけの仕事でもあったのですが、リアルファイトを希求する理想主義者の彼に、プロレスでも最もプロレス的な存在であるマスクマンという役割が振られてしまったのは皮肉極まり無い事実でもあります。梶原と佐山のこのコラボレーションはまさに瞬間の交差点であり、その後はまた再び各々の目的地にむかって離別していく二本のベクトルの矢となるわけですが、その先の10年間は、この二人の軌道を左岸と右岸にした「格闘技=リアルファイト」の豊かな三角州の歴史でもあるのです。

佐山は数年の輝かしい記憶を残してタイガーマスクを封印、新日本プロレスを離脱します。その後紆余曲折を経て、スーパータイガーと改名。ひと足先にUWFを立ち上げた“ゴッチ学校の同窓生”たちに合流することになります。しかし、内部の人間関係や路線闘争などがあって、佐山聡は早々にUWFからも離脱。プロレスをベースにしない、真にスポーツ的な総合格闘技を模索して新競技「シューティング」を創設することになるのでした。

これがかなり革新的な行動であったことは言うまでも有りません。それまでのプロレスの“まず興行ありき”という呪縛から離れて、アマチュアの底辺から人材育成を行い、その頂点にプロをおくという発想は、理想的なスポーツ概念に乗っ取った組織構造です。言ってみれば、当たり前すぎるほどに当たり前の事なのですが、プロレス界にはそれまで全くそういう発想で物を考える人がいなかったわけで、そんな流れの中でコロンブスの卵的にそれを実行に移せた佐山という人は、やはり天才と呼ばれるに値する人物だったわけです。

当時のシューティングの実際の技術は、いまとくらべればまだまだ暗中模索だったかもしれません。しかし、この佐山のチャレンジが無ければ、未だに日本の総合格闘技は10年世界に立ち遅れた物になっていたでしょう。事実、ヴァーリトゥードとグレイシー柔術がもたらした、グラウンド顔面打撃の波が日本に押し寄せたとき、具体的な対応の手段を模索できたのはシューティングだけだったのですから。このときの修斗の果たした役割については、この連載のなかでまた別に項目を設けてお話することになると思います。

プロレスと袂を分かった佐山のそうした試みはあくまで水面下のアンダーグラウンドな試みとして、長くマスコミから黙殺に近い扱いを受けます。やはり天才の発想というものは、時代と言うものの中ではどうしても浮き上がってしまうものなのかもしれません。

結局佐山は自ら生み出したシューティングさえも離れ、ふたたび自らの理想を追う孤独の旅にでます。タイガーマスクとしてプロレスに復帰してみたり、猪木とのコラボレーションで新しいプロレス団体UFOを立ち上げて、オリンピックメダリストでもある柔道家小川直也のプロレス界入りをおぜん立てしたりと目まぐるしい動きをした後、再び掣圏道という新格闘技概念を立ち上げました。

今なお多くの問題提起を世に投げ掛け、毀誉褒貶のなかにある佐山の存在ですが、トリックスター的に時代を渡っていくその手法を見ていると、彼はやはり師である猪木の血を最も色濃く受けた存在なのかもしれないと思うことがしばしばあります。

ですが、1980年代後の段階で時代の要請と大衆の支持を受けたのは、残されたUWFのメンバーの方でした。佐山離脱後、一旦は経営破綻で解散状態に陥ったUWFですが、若きリーダー前田日明を思想的中心に据え1988年に再スタートを切ります。

いわゆる“第二次UWF”として、猪木路線の先を見たがっていたプロレスファンに喝さいのうちに受け入れられるとともに、またプロレスをただの肉弾芝居として切り捨てていた一般の人々も巻き込んでいくことになります。よりリアルなスタイルで投げ、打ち、極めるというUWFのダイナミックな試合を眼にして、彼等は“UWFこそ、ボクシングと並んでスポーツ的な格闘技だ”と支持するようになっていったのです。

当時「UWF現象」とまで呼ばれたチケット争奪戦は、こうして一般社会をまきこみ、メジャースポーツへの道を歩み始めました。試合内容こそまだまだ、従来のプロレスのしっぽをひきずったものだったかもしれませんが、このUWFの躍進こそが、「商業格闘技」の地盤馴らしをした最大の功労者であったことは間違いありません。

(次回に続く)
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