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かつての弟分との因縁マッチにも敗退 「豪腕ベルナルド失速の謎」(2ページ目)

恩師スティーブを後ろ足で砂を掛ける形でのジム離脱後、低迷を重ね、ついに弟分のノルキヤにも敗退。なぜベルナルドはここまで弱くなってしまったのか?

執筆者:井田 英登

■K1世界戦略の転換が生んだ悲劇■

2001年シーズンはこのコラムで何回も繰り返して書いてきたように、K-1が世界規模の拡大戦略から国内市場制圧へ方向転換した、歴史的転換点である。

前年秋あたりから、ベルナルドもその流れを汲んで、対タイソンに照準を絞ってボクシング専念を打ち出していた。前述のバンナ戦も、石井館長の提唱する「K-1代表者vsタイソン」戦を想定した挑戦者決定マッチであったわけだ。いわば、ベルナルドはK-1の世界市場戦略の尖兵として、アメリカのボクシング界へ殴りこみをかけるつもりがあったのだ。しかし、タイソン獲得失敗によって、K-1はアメリカ市場進出から国内へと戦略を翻す。いわゆる対PRIDE,対猪木軍といったマーケティングの転換によって、ベルナルドはしごを外されたことになる。

ここで対照的に浮上することになったのは、今をときめくミルコ・クロコップだった。
彼の場合、オーストラリア世界予選の初戦でマイケルマクドナルドに惨敗。本来世界戦略路線においては“戦力外”に転落した立場であった。しかし、総合路線へ乗り出していく際の切り込み隊長に指名され、総合ルーキーとしてゼロからの再出発を期した彼は、予想外の適合性を発揮。本来、負けても仕方が無い=一種の捨て駒として興行に投入されたにもかかわらず、一発のヒザで藤田を倒し、時代の寵児としてのしあがっていったのだった。

一方、ベルナルドはと言えば、まだ気持ちの切り替えが出来ないままだった。ボクシング転向こそ断念したものの、GP直前に「総合拒否発言」を出してK-1に専念すると言い切る。だが、そんなベルナルドの思いとは裏腹に、時代の流れは完全に総合へと傾いていた。K-1と猪木軍は年末に対抗戦を行うことになり、GPで惨敗を喫したベルナルドは否応無しに猪木祭りに狩りだされてしまう。不器用なベルナルドはミルコのような機を見るに敏な対応ができず、高田延彦との総合マッチで中途半端な逃げ腰ファイトを展開しただけだった。かくて、ボクシングをやりたいのか、K-1 に留まるのか、あるいは総合に進むのか、ベルナルドは三叉路の真ん中で立ちすくむ事になってしまったのである。
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