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江戸の頃から橋と花火と隅田川(歴史編)

隅田川花火大会と呼ばれるようになったのは意外にも30年前。江戸時代から両国の川開きとして親しまれてきたその歴史を昔の写真を交え振り返ってみました。

執筆者:妹尾 みえ

花火は隅田川と共に
両国の川開き

昭和31年(1956)進むに進めず、下がるに下がれず。 写真提供:墨田区緑図書館
2007年の隅田川花火大会は記念すべき30周年記念大会。いつもより多く2万2千発の花火が打ち上げられる予定です。

→詳しくは「花火師の競演 隅田川の花火」

あれっ、でも隅田川花火大会ってまだ30回目なの?
江戸時代から開かれていたんじゃないの?と思った方は、なかなか鋭い。

実は、隅田川花火大会という名前になったのは、昭和53年(1978)からのこと。それ以前は、「両国の川開き」と呼ばれていました。打ち上げ場所も今より下流の両国橋あたりが中心でした。

川を開くとは、海開き、プール開きと同じニュアンスだと思えばいいでしょう。
特に江戸時代には、この日から、およそ3カ月が納涼シーズン。川端の料理屋も夜間営業が許され、 たくさんの人たちが繰り出しました。


水上バスが行き交う現在の両国橋

しかも、第一回隅田川花火大会は、昭和36年(1961)以来、17年ぶり。その間、花火大会は行われていなかったのです。交通量の増大、密集する建物、そしてなにより隅田川が汚れてしまったことが原因でした。

中止となる直前の昭和34年(1959)には、5尺玉の打ち上げも禁止されています。

第一回目の花火コンクールが行われた昭和23年(1948)当時には、泳ぐ魚が見えるほど澄んでおり、花火師の中には船から飛び込む者もいたそうです。確かにいっときの隅田川は、排水等が流れ込み、住民でさえ、近づくのを嫌がったほどでした。
しかし現在、水上バスが行き交い、川面をのぞけばハゼの泳ぐ様が確かめられるまでに復活していることはご存知のとおり。川あっての花火大会なのです。

江戸時代 はじまりは死者を弔う水神祭

両国の川開き」の歴史は、江戸の頃、享保18年(1733)に遡ります。
前年は全国的な凶作。百万人近い餓死者が出た上に、江戸の町でも打ち壊しが発生。追い打ちをかけるようにコロリ病と呼ばれる伝染病(コレラだといわれます)が流行り、多くの命が失われました。

明治40年頃の両国の川開き。左手の土手には花火を待つ人たち。浜川橋方面か?当時は昼花火もあがっていた。舟で川面が見えない。
スターマインは明治末期に初めてお目見えしている。写真提供:墨田区緑図書館

そこで八代将軍吉宗は、悪疫退散と、死者の霊を弔うために、両国橋の近くで「水神祭」を行いました。このとき、川端の料理屋が施餓鬼(せがき=死者の霊を供養する会)を催し、その余興で許可のもと、花火を上げたという記録があります。

たった20発ほどだったらしいのですが、大変なトピックでした。

翌年も同じ日に水神祭は行われ(この年も疫病が大流行している)、同時に花火を上げることが年中行事となりました。

旧暦の5月28日の事といいますから、今で言う7月12日でしょうか。現在、5月28日に「花火の日」が設定されているのは、この話に由来します。

→江戸時代はどんな花火を楽しんでいたのでしょう?
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