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50年後の未来へ走る鈴鹿サーキット(2ページ目)

50年の節目を迎えた鈴鹿サーキット(三重県)の歴史を振り返る特集。後編は隆盛を誇った80年代、90年代を振り返りつつ、未来に向けて走り続ける鈴鹿サーキットの今後のビジョンについてもご紹介します。

辻野 ヒロシ

執筆者:辻野 ヒロシ

モータースポーツガイド


1978年から開催されている鈴鹿8耐

鈴鹿8耐

鈴鹿8時間耐久ロードレース 【写真提供:MOBILITYLAND】


鈴鹿サーキットを代表するレースにオートバイの「鈴鹿8時間耐久ロードレース」がある。1965年の24時間耐久レースなど、オープン当初から長時間のオートバイ耐久レースを開催してきた鈴鹿サーキットだが、オイルショックの70年代前半はこういった長距離、長時間耐久レースが下火になっていた時代だ。

当時は4輪国内レースの最高峰である「日本グランプリ」も富士スピードウェイに開催地が変更になり、鈴鹿が先駆けて始めたフォーミュラカーレースの最高峰であるF1も富士スピードウェイが1976年に初開催にこぎつけて先を越されるなどしていたため、70年代の鈴鹿サーキットは「モータースポーツの聖地」とはとても呼べない立場にあった。

しかし、鈴鹿が巻き返しを図ったのはここからだ。1978年、鈴鹿サーキットはオートバイの世界耐久選手権を闘っていたホンダの海外ワークスチームを参戦させる「インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース」を開催した。このレースの最大のウリは「ナイトチェッカー」。日没後、「夜間のライトオン走行でチェッカーフラッグを受けゴールする」という独自の演出にプライオリティが置かれた。午後7時半にレース終了という設定から逆算すると、適切な時間は24時間でも12時間でもなく、昼前の11時半にスタートする8時間が適切なレース時間と判断され、8時間の耐久レースが産声をあげた。
ナイト

夕闇迫る中、ライトオン走行するバイク 
【写真提供:MOBILITYLAND】



当初の2年間の「鈴鹿8耐」は様々な排気量のバイクが混走するローカルレースに近いものだったが、1980年の第3回大会からは「世界選手権」レースに昇格。1980年代にはオートバイの販売台数の増加も後押しとなり、国内外のメーカーワークスチームが参戦したり、海外の名ライダーが参戦する国際色豊かな大会となった。
鈴鹿8耐

鈴鹿8耐 【写真提供:MOBILITYLAND】



ライダーでいえば、ワイン・ガードナー、ケビン・シュワンツらの外国人ライダーが日本のチームに起用されて活躍。彼らは鈴鹿8耐での活躍が認められ、ロードレース世界選手権(WGP)参戦のキッカケを掴んでいった。また、若者のオートバイブームも一気にヒートアップし、鈴鹿8耐は常に10万人を越える観客を動員する一大イベントへと成長していったのである。
シュワンツundefinedガードナー

ケビン・シュワンツとワイン・ガードナーは1988年のWGP日本グランプリで鈴鹿サーキットを舞台に対決。8耐出身ライダーによるWGPでの名勝負は多くのファンの心に刻まれており、彼らが再来日を果たした「50周年ファン感謝デー」でも多くの熱狂的なファンが集まった。今でも強い求心力をもつ選手達は鈴鹿8耐をキッカケにして、世界のトップライダーへと登り詰めていったのだ。
【写真提供:MOBILITYLAND】



この鈴鹿8耐が後に鈴鹿サーキットと日本のレース界にもたらしたものは大きい。なぜなら本当の意味での国際レース、世界選手権レースを開催することで、世界基準とは何かを学ぶ事ができたからだ。レース運営を支えるオフィシャルたちの経験と技術力を一気に国際レベルに近づけ、1987年からの「ロードレース世界選手権(WGP)」「F1世界選手権」の開催へと弾みをつけていったのである。鈴鹿8耐で後のスターライダーがその名を轟かせなければ、鈴鹿8耐の開催自体が無ければ、そういった世界最高峰レベルのレース開催も実現しなかったと言っても過言ではない。

次のページは「F1日本グランプリ」の歴史について紹介。

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