不妊症/全国の不妊治療の病院・クリニック・治療院

浅田レディースクリニック 浅田義正院長取材―前編

フジテレビの番組『エチカの鏡』でご存じの方も多いと思います。浅田レディースクリニックの浅田院長先生にみっちりと話して頂きました。

執筆者:池上 文尋

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浅田レディースクリニック院長の浅田先生です。

今回は昨年、名古屋駅前に新クリニックを開設された浅田レディースクリニックの浅田院長先生の独占インタビューを行いました。

インタビューの前にクリニックの中を拝見致しましたが、その設備は世界でも有数の施設だと思いました。特に培養室は外から見る事が出来るので分かりますが、とにかく凄いの一言です。空気の流れや気温の変動のコントロール、照明、個別対応のインキュベーター(孵卵機)、最新の顕微鏡など院長のこだわりが隅々まで行きとどいています。

フジテレビのTV番組「エチカの鏡」が放映されて、一躍全国的に有名になった浅田先生ですが、それで逆にとっつきにくいとか忙しい方なので相手にしてもらないのではというイメージがあるようです。しかし、実はとても誠実な優しい先生です。

今回も本当にここまで話していいの?というぐらい色々と正直に語って頂きました。凄い量なので2回にわたってご紹介していきたいと思います。

それではインタビューをご覧ください。

医師になり、内科から産婦人科に異動願いを出されて産婦人科に行かれたそうですが、お産ではなく、なぜ不妊治療に興味を持たれたのでしょうか?

内科から産婦人科に移動したというのは産婦人科が特別やりたいというのではなく、内科を辞めたくなったのが真相です。大きなきっかけは2人の患者さんでした。治療しても治らないことを実感し、医者としての無力感を感じて内科をやめました。

1人は肺癌の末期のおばさん。もう一人は16歳の白血病の女の子。16歳の白血病の女の子は、まだ名前も覚えているくらい、鮮明に記憶しています。最終的には骨髄移植しかないというところまでいって、その骨髄移植も家族に拒否されて何もできなくなっていました。

私は2年目の研修医だったのですが、その子の最後の主治医でした。先輩から毎日1日2回くらいは病室に顔を出せと言われていたのですが、病室に行っても何もやることがなかったのです。当時は癌ということを告げてないわけで、色々文句が出ても、ごまかすしかないということが続いていました。

どんどん血小板が少なくなっていくと、ドナーの人から新鮮血を機械を使って取り出し、その中の血小板だけを取り出して、それを戻すということを何時間もやっていました。

取れた新鮮血小板を2日に1回ぐらい輸血するという事を繰り返していました。ドナーの手配からすべて、主治医として全部一人で行い、疲れきっていました。毎日毎日どんどんと血小板が減少し、最後に脳卒中を起こし意識がなくなった時に、これで終わったという事で自分ではホッとしました。

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喜びの医学を行いたくて産婦人科へ異動しました。

でもよくよく考えてみると、患者が死ぬ時にホッとするというのは、医師として人間としてあってはならない。ホッとした自分を許せなくて、死んでいく人を診ることが嫌で、産婦人科に変わりました。

産婦人科でも癌の患者さんを診ていたわけですが、内科に比べれば、ずっと癌の患者さんは少なく、毎日毎日お産で生まれる人を見るわけで、「お大事に」ではなく「おめでとう」と言って退院していく時に、これが私の幸せだと思いました。

普通の病院の産婦人科に3年半いて、そのあと大学に戻り、最初の1年は周産期・お産の研究室でした。そのあと大学の研究室の関係で、不妊治療専門の人がいなくなるからという理由で指名され、不妊治療の研究室に変わりました。

内科の経験があったので、名古屋大学では誰もやっていない更年期のホルモン補充療法の研究・外来も始めました。その上で不妊治療も始め、不妊症も専門になりました。不妊症をやり始めたきっかけとしては、大学の都合でしたが、患者さんの話を聞いてその都度、判断していくことを苦痛に感じなかったので、自分には合っていたのだと思います。

顕微授精の研究のためにアメリカに行かれていましたが、その当時のお話を聞かせて下さい。(留学先、暮らしぶり、特に印象に残っている事)

アメリカに行きたいと思ったのは、一生のうちに一度ぐらいはちゃんとした研究がしたいと思ったからでした。大学院を出ているわけではなく、一般の医員が留学した例というのは、名古屋大学でもあまりありませんでした。そこで留学するぞするぞと周りに言いふらし、留学するという雰囲気を作っていました。

そして、アメリカのヴァージニア州ノーフォークにあるイースタン・ヴァージニア・メディカル・スクールというところのジョーンズ・インスティテュートに留学しました。ここはアメリカで最初に体外受精に成功したところで、ハワード・ジョーンズ先生とジョジアンナ・ジョーンズ先生と2人ご夫婦が中心となって作った研究所でした。

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留学中は顕微鏡とにらめっこの日々が続きました。

お給料は出ませんでした。普通の非常勤医員のままでいくとお金が出ないので、大学の助手というポストにしてもらい、基本給の7割の毎月17万円もらうことができました。教授は反対していたのですが、研究会を作り定期的に医局に研究費が入るという仕組みを作って、他の人に委託して行きました。

実際の生活費は30万円ぐらいで、自分の貯蓄を少しずつ使いながら非常に貧乏な生活をしていました。

購入しても持って帰れないので、使い捨てのような安い家具を探し、毎週土曜日には新聞を見てガレージセールに行き、安い衣類や子供用のベッドもいろいろと交渉して値切って買っていました。

地元の魚屋に行って、刺身になるようなものを探し、毎週行っていたら顔なじみになり、いい魚があるとこれは刺身にできると教えてくれるような関係になりました。

特にアメリカで印象に残っていることは、アメリカは人柄と能力と収入が非常によく比例しており、お給料もすごく差があるのですが、アメリカで上に立った人は皆、表面的にしろ、非常ににこやかで、人当たりが良くしっかりとしていて、嫌な人に会ったことがありません。

日本の年功序列の社会では、無愛想な上司や教授が多いのですが、アメリカでは、非常に若いころから訓練され続けた結果だと思います。ただディベートの時には喧嘩しているのかというぐらい議論をしますが、その後腐れ縁なく終わってしまうところが日本人から見て、不思議なところでした。

アメリカでは最初から顕微授精をやろうと思っていたわけではなく、顕微授精の手法を使って、卵の中にいろいろな物質を入れたり、薬剤を入れたりして、卵の性質を研究していきたいと思っていました。ちょうどその頃に初めて顕微授精で妊娠したという報告が入りました。

実験の中で顕微授精の手法を取り入れたいということを私の上司のスーザン・ランツェンドルフに上申しました。実は最初のICSI成功の報告は1992年ですが、彼女は1988年まで人の卵で顕微授精で受精卵を作ったのですが、妊娠まで至っていませんでした。

彼女は「あなたがやりたいなら好きなように実験をしてもいいよ。私は何年も前に諦めたからやらないので」と言っていました。昔使っていた道具を持ってきてくれて、アドバイスをくれ、スムーズに研究を始められました。私はジョーンズ・インスティテュートからは給料はもらっておらず、毎日朝から晩まで働く必要もなかったのですが、本当に良い人ばかりでした。

英語は上手く話せなかったのですが、私は器用だったのでピペット作りが上手く、不器用なアメリカ人から認められました。臨床はやっていなかったのですが、顕微授精でジョーンズ・インスティテュートでの最初の妊娠例で使った時のピペットは私が作ったものでした。

また講習会の時も私がピペットや機械を用意しました。もっと研究したかったのですが、医局の都合で、途中で帰ってきました。帰ってからもう一度文部省からお金をもらいながら、海外留学したいと思っていたのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。

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