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欧州最後の独裁者がいる国ベラルーシって?

「欧州最後の独裁者」と国際的に非難されるルカシェンコ大統領の3選を決めた大統領選がまた国際的に問題となっています。このベラルーシという国、なじみは薄いですがどんな国なんでしょう?

執筆者:辻 雅之

(2006.03.24)

「ヨーロッパ最後の独裁者」といわれたルカシェンコの大統領3選。EUはそれに対して経済制裁を実施するなど不穏な雰囲気が漂いはじめたベラルーシ。昔は白ロシアともいっていたこの国、あなたは知っていますか?

1ページ目 【ベラルーシ、その原点はどこにあるのか……?】
2ページ目 【ポーランドからロシアへ、そしてソ連との結びつき】
3ページ目 【ルカシェンコ独裁を批判する欧米、守りたいロシア】

【ベラルーシ、その原点はどこにあるのか……?】

ナショナリズムの薄い国?

ベラルーシ
ロシアとポーランドの中間にあるのがベラルーシ。「西欧とロシアの狭間」に位置している
「1991年まで、ベラルーシ人は独立国家を持たなかった」という歴史家は多くいます。それに対する「民族派」の反発もあるのですが、ベラルーシ人のナショナリズム的感情が薄いことは事実のようです。

実際、80年代までは「白ロシア」を名乗っていたわけで……ロシアの「姉妹国」と思われてもいたしかたない国名です。

例の「独裁者」ルカシェンコは、他の国の独裁者と違い、むしろベラルーシ・ナショナリズムを抑圧してきました。ベラルーシ語よりロシア語を学べという政策を強行しています。

それはなぜなのか……は、後半お話していきます。

たとえば、ベラルーシの農村地帯にいる人たちに「あなたは何人ですか?」と聞いたら、こう答えが返ってくるそうです。「ここの人間だ」。「ベラルーシ人」とは、言わないそうです。

『不思議の国ベラルーシ』(服部倫卓氏著)によると、首都ミンスクでは、市民のおよそ60%日常会話にロシア語を使っているそうです。ベラルーシ語はもちろん国民の「母語」と認識はされていますが、日常会話でベラルーシ語だけが使われることは少ないようです。

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東スラブ民族の原点「キエフ公国」

キエフ公国
キエフ・ルーシともいい、ベラルーシの原点。しかし、国名からか「ウクライナの原点」として紹介されることが多い
8世紀ころまでにロシア・ウクライナ・ベラルーシの辺りに定住するようになった東スラブ民族は、やがて「キエフ公国(キエフ・ルーシ)」という大きな国を作ります。

この国は、今のベラルーシのほとんどを領土にしていたといわれますが、それほど強大な国ではなかったようです。中国の周王朝と諸侯の関係に似ているのでしょうか。各地に配下の諸侯たちが多くいて、半独立の「公国」を形成していたようです。

さてこのキエフ公国、首都が今のウクライナの首都、キエフにあり、名前もキエフ公国ということで、基本的に「ウクライナの原点」として取り扱われることが多いようです。

やがて、今のベラルーシ北部にあり、キエフ公国配下諸侯の一員だったポロツク公国が強大化していきます。また、おくれて南部のトゥールフ公国も強大化。そんなこんなでキエフ公国は分裂していきました。

「リトアニア大公国」をめぐる論争

13世紀前半、ベラルーシ地方の諸侯の1つ、ノヴォグルドク公国が一気に強大化し、この国の大公がローマ教皇から「リトアニア王」の位を授かります。これが、「リトアニア大公国」の始まりです。

この国はどんどん強大化し、バルト海からウクライナ、黒海沿岸までを縦断する大きな領土を築きます。このとき、ロシアはモンゴル民族の支配下にありました。

しかし、リトアニアの歴史は、当然かも知れませんがこの国を「リトアニアの栄光の歴史」の中で語ります。ローマ教皇から位を授かった「リトアニア王」とは、リトアニア人であったと。

ベラルーシの歴史学で、これに異議を唱える人たちは少なくありません。しかし、あとで述べますが、ナショナリズムの抑圧を何度も受けているベラルーシの声は、リトアニアのそれに比べて小さいのが現状です。

ベラルーシでは有名な歴史家エルモロビッチは、ベラルーシの諸侯・貴族たちが結びついてノヴォグルドク公を擁立し、生まれた国家がリトアニア大公国であった、と主張しています。

このエルモロビッチは、2000年に交通事故で亡くなっています。実はこれを「反ナショナリストの陰謀」と考える人たちも少なくないとか……。

リトアニア大公国とポーランドの接近

いずれにせよ、リトアニア大公国の支配階級はローマ教会と結びつき、カトリックを受け入れていましたが、支配下にあったスラブ系の民族の多くはキエフ公国時代に受け入れたギリシア正教を信仰していました。

そのため、やがて東でモンゴル帝国(キプチャク=ハン国)支配からギリシア正教の国であるモスクワ大公国(ロシア帝国の前身)が自立、発展してくると、リトアニア大公国は次第にカトリック国である西のポーランドに接近するようになります。

リトアニア大公国の支配階級はカトリック、民衆はギリシア正教という関係だったため、リトアニア大公国の支配層は、ギリシア正教国であるモスクワ大公国との連携を避けたというわけです。

リトアニア大公国とポーランドとの合同

リトアニア大公国と・ポーランド王国
リトアニア大公国とポーランド王国は合体、ヤゲウォ王朝のもとで大きな勢力を誇った
14世紀終わり、ポーランドで幼少の女王が即位すると、リトアニア大公国のヤガイロ大公は女王と結婚し、ポーランド王になります。こうしてポーランド最強のヤゲウォ王朝が誕生、リトアニア大公国=ポーランド王国の連邦化(クレヴォ合同)が実現します。

この過程で東スラブ系民族のカトリック化が進み(簡単に進んだわけではありませんが)、また、都市にドイツ中世都市のような「自治権」が認められていきます。その代表が「マグテブルク法」による自治権付与でした。

こうして、ベラルーシは専政化が進むロシアとは異なる歴史を歩むようになった……数少ないベラルーシ・ナショナリストは、こう言うといいます。もっとも、民衆の大半は都市に居住していない農民であったわけですが。

「ユニエイト」の誕生

16世紀、バルト海をめぐってロシアとリトアニア=ポーランドの戦争が起こります。この中で、ポーランドはリトアニアに連邦から合同への変更を申し入れ、戦争に直面した疲弊したリトアニア貴族たちはこれに応じます。これが、「ルブリン合同」です。

これを、「ベラルーシの屈辱」と考える人も少なくありません。事実、これは合同というよりは、ポーランドによるリトアニア大公国の編入だったからです。

そしてポーランドはベラルーシやウクライナのカトリック化をさらに進め、正教の教義などを取り入れた独特なカトリック教会「ユニエイト」を創設します。こうしてベラルーシやウクライナではユニエイトが普及します。

ベラルーシではここでユニエイトが広く普及することになりますが、ウクライナはその東方がロシアやトルコの支配下にあったため、その普及は西部にとどまります。

2004年の「オレンジ革命」などでも見られた、現在のウクライナにおける深刻な東西対立の源流は、ここにみることもできます。

ポーランドの衰退

さて、合同といっても、一応、ベラルーシ地域などは「ジェチポスポリタ」という独立国家とみなされていました。ジェチポスポリタは、18世紀初めの北方戦争(ロシアとスウェーデンの戦争)などでロシアと同盟を結んで戦ったりしています。

さて、18世紀、ポーランドの東方ではロシアが、西方ではプロイセンが、またオーストリアが、それぞれ中央集権を進めて絶対主義王政の樹立を進めていました。しかし、ポーランドは貴族の対立が進み、その波に遅れていくことになりました。

こうして「ポーランド分割」が行われるのですが、むろん、これには決してベラルーシは無関係ではありません。むしろ、その後を決定づける大きな出来事となったのです。

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