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日本国憲法は「押し付け」か?(2ページ目)

憲法改正論議、いよいよ高まってきましたね。そんな議論の中、しばしば出てくるのがアメリカによる「憲法押し付け論」です。それを考えるために、日本国憲法制定過程を見ていきましょう。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【最初は憲法改正に消極的だった日本政府と意外な人物】
2ページ目 【憲法制定過程で生まれた「2つの草案」そしてマッカーサー草案】
3ページ目 【「憲法第9条」は自発的なものなのか、押しつけなのか?】

【憲法制定過程で生まれた「2つの草案」そしてマッカーサー草案】

最初は憲法改正に積極的でなかった政府と松本委員会

さて、憲法問題調査委員会ですが、これは名前の示す通り、まず「大日本帝国憲法は改正すべきかどうか」から始まるもので、改正に対しては、最初は消極的でした。

特にその立場をとったのが、美濃部達吉でした。美濃部は、「天皇といえども国家機関の一部であり、憲法によって拘束される」と主張する「天皇機関説」論者の戦前の代表者であり、それがもとで彼は貴族院議員の職を追われる(「天皇機関説事件」)などの迫害を受けた人物でした。

しかし、その彼が、憲法改正は不要と主張したのです。つまり、軍部が憲法を蹂躙(じゅうりん)したのが間違いであって、現行憲法を忠実に守れば、十分民主化は可能である、と言ったのですね。

こうしたなかで、松本委員会は、徹底した秘密主義の下、活動を続けていきます。これが、後の事件の伏線になるとは、誰も考えていませんでした。

実は重要な意味を持った? もう1つの草案

さて、憲法改正の動きは、他にもありました。いろんな勢力が、独自の憲法改正案を作っていました。

そうしたなか、注目すべきは左派中道の知識人が集まってつくった「憲法調査会」による『憲法草案要綱』でした。これは、高野岩三郎(元東大教授、後にNHK会長)を中心に、森戸辰男(元東大教授、戦前の言論弾圧事件である「森戸事件」で有罪になる)、馬場恒吾(読売新聞社社長)などそうそうたるメンバーが集まって作られたものでした。

この案は、国民主権を明確にうたっていること、そして、日本国憲法25条1項の文言に非常によく似た表現が出てきていることが注目点です。

「憲法草案要綱」第12条
国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する。

日本国憲法 第25条1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。


(「憲法草案要綱」は『たむ・たむ(多夢・大夢)ホームページ』(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/)より引用)

この案は、1945年末にGHQにも提出されました。これはGHQによって英訳されるなどして、のちの「マッカーサー草案」に影響を与えたと言われています。

憲法草案ができないことにあせるアメリカ、GHQ

そして1946年に入ります。しかし、いっこうに日本政府から憲法草案が上がってこないことに、GHQはいらだちはじめます。

それは、前年の末に、日本占領の最高意思決定機関である「極東委員会(FEC)」ができたことが影響しています。

つまり、FECができることによって、日本占領に、アメリカだけでなく、ソ連などを含めた多くの国が参加することになったわけです。特にソ連、イギリスは昭和天皇の戦犯指定などを要求してきていましたから、アメリカ中心の対日政策が揺らぐ可能性が出てきたわけですね。

そこで、アメリカ=GHQは、なんとかこの会合開始を伸ばしに伸ばそうとします。しかし、それにも限界があるわけで、FECがやれ天皇訴追だ天皇制廃止だとかいわないうちに、憲法改正にけりをつけたかったわけです。

そして「マッカーサー草案」が突き付けられる

さてそんな中、秘密裏に審議をしていた松本委員会の案が、突如、毎日新聞によってスクープされてしまうというできごとがおこります(1946.2.1)。ここで報道された案は、最終的なものではなかったのですが、あまりに保守的な内容だったので、GHQはいよいよしびれをきらせます。

そしてマッカーサーは、GHQ内の民政局(GS)に、独自の草案を作らせます。これが、「マッカーサー草案」といわれるものです。しかも、それは8日間の「突貫工事」でできたものでした(以前から研究はしていたようですが)。

それは、2月13日に、最終的な「松本案」を説明するためにやってきた政府代表らに、いきなり突き付けられます。これをつきつけたGS局長ホイットニーは、「これは強制ではない。しかし、天皇制を守るにはこれしか方法はない」ということをいって、暗にこれをもとに改憲するよう迫ったわけです。

ちょっとしたパニックになった幣原政権ですが、しかしなんとか気を取り直して、しょうがなくこのマッカーサー草案にそった形で憲法改正案を、これもやはり突貫で、3月6日までに作成してしまいました。

しかし、「GHQに押し付けられた」感は強かったようで、このとき厚生大臣として入閣していた芦田の日記によると、幣原首相は閣議の締めくくりにこう述べたといいます。

「斯る(かかる)憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至る迄の責任である。……(中略)……然し(しかし)今日の場合、大局の上からこの外に行くべき途はない」(『芦田均日記 第一巻』岩波書店、下線は筆者による)

最後の帝国議会での憲法改正審議

そして、枢密院による草案承認ののち(唯一、美濃部は反対)幣原内閣は総辞職し、吉田茂自由党総裁を首相とする政党内閣のもとで、議会による改正審議が行われました(1946.6.20~)。

この審議は、わりとスムーズにことが運びました。それは、この議会の前、大規模な「公職追放」が実施され、戦中に戦争反対派であった鳩山一郎(のちの首相)らをはじめとした「反GHQ派」が一掃されたこともあったのでしょう。

審議はまず、金森徳次郎が憲法担当大臣となった上で、芦田が委員長をつとめる衆議院の憲法特別委員会がつくられ、ここでの審議が8月上旬までに終了、8月24日の衆議院本会議で可決、貴族院で修正の後10月6日可決、そして修正案を衆議院が翌日可決して、憲法改正は終了したのでした。

そして10月17日、FECは「日本国民の意思を確かめるためのレファレンダム(国民投票)または適当な手続き」を要求したわけですが、できあがった憲法そのものを否定する文言はなく、これが実質的なFECによる憲法承認宣言となったのでした。

そして10月29日、再度、天皇の諮問機関である枢密院で議会が制定した憲法案を可決して「大日本帝国憲法上の改正手続」にいちおう適合した形をとり、11月3日、「日本国憲法」は公布されたのでした。

マッカーサー草案と日本国憲法の相違点

さて、政府、議会は、マッカーサー案をまったくそのまま通したわけではありません。へんな訳文みたいなものは結構直しました。そして、制度的な意味での主な変更点は4つありました。

(1)国民主権を明文化したこと。
(2)マッカーサー案は一院制議会だったが、これを二院制にしたこと。
(3)憲法第9条2項に「前項の目的を達するため」という文言が加わったこと
(4)国務大臣を全員文民(=非軍人)にするという条項を加えたこと

でした。

このうち(1)は、主としてGHQサイドからの要求でした。(2)は、政府と貴族院が一番こだわったところです。(3)は、いわゆる「芦田修正」というもので、これは次ページでお話します。これに関連して作られたのが(4)でした。

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