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ミャンマー(ビルマ)の政治情勢(2ページ目)

ノーベル平和賞アウンサンスーチー女史の軟禁解除でがぜん注目を浴びるミャンマー(ビルマ)情勢。軍事政権と民主化運動の対決だけでは読み切れない、複雑なミャンマー(ビルマ)情勢基礎知識。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【意外と日本とのかかわりが深い、ミャンマー建国の歴史】
2ページ目 【アウンサンスーチーの登場と《暫定》軍事政権】
3ページ目 【外交問題にも発展、ミャンマー少数民族】

【アウンサンスーチーの登場と《暫定》軍事政権】
「建国の原動力」と「独立の父の娘」との今なお続く闘い


▼ミャンマー(ビルマ)政治史年表(2)


1962年、アウンサンらとともにミャンマー(ビルマ)国軍を築き、国軍の最大実力者だったネウィンがクーデターを起こし、政権を奪取、以後国軍による軍事政権が続いています。

ネウィン政権はミャンマー(ビルマ)を独特の社会主義国家にしようと考え、外国資本の排除、徹底的な産業の国有化を推進していきます。しかしこれにより経済はかえって混乱、1980年代には国連からLLDC(後発発展途上国、いわゆる「最貧国待遇」)の認定を受けるほどになってしまいます。

このようななか国民の不満は民主化運動として爆発。1988年、学生のデモをきっかけにミャンマー(ビルマ)史上空前の国民運動が巻き起こります。この運動のさなかたまたま「母親の看病のため」イギリスから帰国した一人の女性がアウンサンの娘、アウンサンスーチーでした。

アウンサンスーチーはイギリスでイギリス人と結婚、2人の子どもを出産しながら学者としての活動を行っていたのですが、たまたま帰国したミャンマー(ビルマ)で「建国の父の娘」として国民に熱狂的に迎えられてしまい、そのまま民主化運動のトップリーダーになってしまったのです。

こうしたなか国軍は全権掌握を一方的に宣言、形だけは民政をかろうじて維持してきた政府を廃止、SLORC(国家法秩序回復評議会)を設置します。SLORCは「総選挙実施までの《暫定的》支配」をうたいますが、それとは裏腹に民主化運動を徹底的に弾圧。多くの死傷者が出たといいます。

1990年、なんとか国会の総選挙は行われますが、アウンサンスーチー率いるNLD(国民民主連盟)が圧勝(485議席中392議席)すると、軍事政権は即時の国会開設を拒否。その後も延期し続け、NLD「議員」の切りくずし、議員資格はく奪などの強権的な圧力を加え続けています。

さらにアウンサンスーチーの2度にわたる自宅軟禁、軍事政権の強化(SLORCからSPDC(国家平和開発評議会)への改組)などで、軍事政権の国際的な批判は高まる一方。ODAなどの援助もストップされ、経済は低いレベルで停滞したままです。

このような状況を受けてか、ここにきてNLD幹部解放、アウンサンスーチーの自宅軟禁解除など軍事政権の緩和策も打ち出されています。これに対し今後NLDがどのような対応に出るのか、注目されるところでしょう。

最後のページでは、ミャンマー(ビルマ)政治を語る上で欠かせないもう1つのファクター、ミャンマー(ビルマ)の少数民族について解説していきましょう。
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