文章:井上 明(All About「そば」旧ガイド)
ステアリングホイールを握ると、 東京の風景は、フロントウィンドウの中で時速60kmで切り取られていく動画となる。そんな時、お決まりのBGは、車載のレイディオに同調したFMのローカルステーションだ。
夜の帷が降り、見慣れたはずの街角に、イルミネーションの点描が加えられ、番組がア・カペラをヘビーローテーションで奏ではじめると、いつもは無神論の人々もにわかに敬虔なクリスチャンとなる、あの季節がやってくる。
この街に、そろそろはじめての木枯しがプレゼントされるころ。その冷たい便りで首筋をぞくっとさせられてしまうと、誰もがなぜか、人恋しくなってしまうのだ。
だからいつもは、独りで地味にそば屋を愉しむ向きも、こんな季節は仕事の苦楽を共にしているハラカラと大いに語り合うのもよしである。ここは、おじさんたちのオアシスである新橋、エンスージアストの聖地、モーターマガジン社の脇の露路に、辻そばというイケてる店がある。

ひっそりと、しかし、凛と佇むその風格は、名店の予感。表通りではなくて、一歩踏み込んだロケーションに、こういう店を造られてしまっては、新橋のオジサンたちはもう、放っておけませんッ。
暖簾をくぐるや、左に手打ち場、そして圧倒的なトルクで低い咆哮をたてながら、ぐりぐりと碾かれていくそば粉。むせるほどに香り立つその物件を一瞥するだけで、この店のコダワリと意気込みの水準が諒解できる。

早く、啜りたい。逸るキモチをなだめるために、まず一杯の蕎麦前(日本酒のこと)を戴くのは、良質な蕎麦に出会う前にぜひとも踏んでおきたい通過儀礼なのである。
男山、嘉泉、五人娘、越乃景虎 等々、昏がりの中で思い思いの名柄を慈しむように呑れるのは嬉しい。しかもこの店、独酌もいいが、連れだって訪れても居心地がいい。実はこのご主人、新橋で俸給生活をなさっていた歴史が長かった。それゆえ、ご主人は、この街が求めているホスピタリティとはどういうものであるのか?という哲学的な命題に対して、明確な答えを携えておられるように見受けられる。

昼も、夜も、新橋のおじさんたちが(いえいえ、訪れたときは女性のグループが何組もおられました)、愛してやまない空気感。この無形の価値に、鍛え上げられた洗練を感じてしまうのであります。
さて、あまり長ッ尻は、この店を愉しみにして通ってこられる常連さんのお邪魔になるといけません。おそばをいただくことにいたしましょう。
最初は、がつんと太打ちした剣客そば(950円)。ぶっかけのスタイルで、どんぶりに冷たい汁と大根おろし万能ネギ、鰹節をのせた一杯。なお、トッピングは、時に変更になることもあるようだ。

そしてもう一枚、ご自慢のざるそば(750円)。こちらは見事な細打ち。この店のそばは、どれもがツナギを入れない生粉打ち(きこうち)である。そばは提供の前に釜の脇でしっかりと水切りの仕事がほどこされる。これがパフォーマンスとなっていて、見ていて飽きない。そもそも釜をお客様から見える場所にレイアウトするというのは、相当仕事に自信があるからできることなのである。素晴らしい。

さて、新橋を愛するご主人だからこそ、オジサンたちに配慮したもう一つのサービスを実施している。
それは、ランチタイム割引システム。嬉しいことに、この良質のおそばが、昼はすべて100円引きでいただける。大盛り200円増し、追加ざる400円というのも、嬉しい限りだ。
【辻そば】
住所:港区新橋5-33-3
(TEL)03-5401-1851
営業時間:11:30~14:00/17:30~22:00(L.O.21:30)/土曜は昼のみ
定休日:日曜・祝日
終日禁煙