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矢部次郎選手インタビュー もうちょっと現役にこだわりたい(3ページ目)

サッカーライター江藤高志さんが矢部次郎選手をインタビュー。矢部選手は昨年鳥栖を解雇され、来季プレーできるチームを探している。彼が語ったサッカーにかける思いをどうぞ。

執筆者:小野寺 俊明

鳥栖での日々

鳥栖での二年目に完全移籍をしたのが2001年だったんですが、このシーズンはそれほど成績は良くなかったですね。

鳥栖で一番やりやすかったのが副島(博志)さんが監督をされていた2002年でした。すごく理論はしっかりしてますし、情熱もあったですしね。練習に対する準備もしっかりしてて、選手スタッフとかの信頼関係も良かったです。毎朝8時とかにミーティングをして『今日の練習はこういう事をするから』という話をしてグラウンドに行くともうすでにそういう準備がされていて、すぐに練習に入って行ける。合宿とかも全員で戦術について勉強して共通意識を持たせてやってました。プレシーズンマッチはめちゃくちゃ強くて、グランパスにも勝ったですしね。

副島さんから評価してもらっていたのか、人がいなかったのかわかりませんが、出場停止や累積以外は全部スタメンで出させてもらいました。このシーズンにはビスコンティとかも来てすごく勉強になりました。ぼくの中では、2000年の半年と2002年が一番楽しかったですね。サッカーが楽しいという事を思い出したのが鳥栖でした。

で、2003年。はじめは攻撃的に行く。2点取られても3点取れたら勝てるという話でスタートしました。ただ、かみ合わなくて、チームは荒れて行きました。そんな中でもなんとか出なあかんと思いながら毎日一生懸命やりましたけど、13試合ですか。ちょこっと出ては外され、他の選手がダメになるとまた出てまた外され、ローテーションで。

そんな中、ぼく、8月の頭のアビスパとのダービー(2日・26節)だけはなんとしても出たくて、それでアピールして先発で出してもらえたんですが、そこで開始5分くらいでケガしてしまったんです。なかなか出られないし出るチャンスも滅多にないしダービーだし、という事でプレーを続けていたんですが後半の頭くらいに点を取られてしまった。

そのシーズンは、点を取られるとたいがいぼくは代えられていました。ボランチを一人削ってFWを一人入れる、という交代がパターン化していて。で代えられたんですが、そのケガが実は全治2~3ヶ月くらいの重傷だった事がわかったんです。結局最後の43節かな。広島の昇格が決まった試合の残り15分くらいに出てそのままシーズンが終わったという感じでした。その時は会社もごたごたしてましたし、現場もまとまってなくて『もうケガもしてもーたし、自分のためだけにトレーニングしよう』と思ってパーソナルトレーナーを雇って筋トレとかを教えてもらったりして。そういう事がきっかけで自分の体に気を遣うようになったんです。

2004年シーズンの監督になった松本(育夫)さんは、昔のサッカーは詳しいですね。プレーに対する例えでソ連とかハンガリーとか釜本とかの名前が出てきてました。自分の考えを持っている人なので、そこに合わせるのが大変でした。結局1年間一緒にやらせてもらって解雇。鳥栖の生活を振り返ると、いい思い出も苦しい思い出も、両方ありましたね。
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