歌舞伎/歌舞伎関連情報

より深い悲劇を追求して 名作「熊谷陣屋」を見逃すな。

10月の歌舞伎座の舞台では、「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」の幕が上演される。

執筆者:五十川 晶子

●悲劇中の悲劇
10月の歌舞伎座で上演される『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」は、歌舞伎の時代物の中でも名作の一幕である。

チラシも秋らしくいい感じ。配役はここでチェック。

鎌倉時代に成立した平家物語の「敦盛最期(あつもりさいご)」を素材としている。平家の若武者、無官大夫敦盛(むかんのたゆうあつもり)と、源氏の武将・熊谷次郎直実が、須磨の浦で一騎討ちとなり、熊谷は自分の息子・小次郎(こじろう)と同じ年である16歳の若者の首を打ったことに無常を感じ、後に出家するというのが元々の筋である。

江戸時代、当時人口に膾炙していたと思われるこの有名な物語は、1751年に人形浄瑠璃として脚色されて上演。さらに翌年、歌舞伎で森田座にて上演された。

ストーリー
敦盛の首を打った熊谷が陣屋に戻ると妻・相模(さがみ)と敦盛の母・藤の方(ふじのかた)がやってきている。藤の方は息子の敵である熊谷を討とうとするが、熊谷は敦盛の最期を詳しく物語り、敦盛の首を大将である源義経(みなもとのよしつね)の前で実検する。間違いなくその首は敦盛であると義経は断言する。

熊谷は元は平家筋の人間で後白河院(ごしらかわいん)に仕えたことがあった。当時、相模と密通し罪に問われるところ、院の寵愛を受けていた藤の方の取り成しにより、一命を取りとめ武蔵国へ赴くこととなった。その藤の方と相模とがほぼ同じ頃に懐妊し、それが敦盛と小次郎であった。義経は熊谷に「身代わりを作り敦盛を助けよ」と暗黙に命じていた。

熊谷は敦盛の代わりに小次郎の首を打ち、義経に差し出した。義経はそれを理解して「敦盛の首」と認めたのである。忠義は尽くしたが息子をなくした熊谷は、無情と絶望にうちひしがれ法然上人を師事し出家する。
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