アジア歴史資料センター、デジタルアーカイブ、坂の上の雲…
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テレビドラマ放映で注目を集めた、司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」。明治維新を経て近代化していく日本、そして秋山好古・秋山真之・正岡子規の三人を中心に、その時代の人々の生涯を描いた作品です。

この作品のハイライトともいうべき「日露戦争」を、わかりやすい動画コンテンツと、貴重な資料の数々で振り返ることができるwebサイトがあるのです。さっそくのぞいてみましょう。

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ポーツマス講和会議の舞台裏 栄光の戦艦三笠 沈没の悲劇 ロシア兵捕虜は厚遇された!? 戦艦大和や幻のオリンピックも
日露戦争を終結させた「ポーツマス講和会議」 舞台裏と全権代表・小村寿太郎の思い
日露戦争とは
1904年(明治37年)〜1905年(同38年)、大日本帝国(当時の日本)とロシア帝国が、朝鮮・満洲(現在の中国東北部)の支配権をめぐり、満洲南部を主戦場に戦った戦争。日本は旅順攻撃・奉天会戦・日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発などによって戦争終結を望み、米国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。
小村寿太郎 小村寿太郎
(1855〜1911)

明治の外交官で、外務大臣や清国駐在公使を歴任。日米通商航海条約の調印で関税自主権の回復を果たし、日露協約の締結や韓国併合にも関わるなど、一貫して日本の大陸政策を進めた。
小柄で頭が大きく、貧相なひげを生やした容貌と素早い行動力から「ねずみ公使」とも呼ばれた。
ポーツマス講和会議とは
1905年(明治38年) 、アメリカの大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋で開かれた日露戦争の講和条約。アメリカ・ニューハンプシャー州のポーツマスで開かれ9月5日に調印。
セルゲイ・ウィッテ セルゲイ・ウィッテ
(1849〜1915)

帝政ロシアの政治家で首相(閣僚評議会議長)など要職を歴任。小村とは既知の仲だった。
講和会議の時点で既に、「日本は戦争継続など到底不可能な極限の疲弊状態にある」と見抜いていた、と言われる。
講和会議の様子
▲明治38年8月14日の講和会議の様子。右から3人目が小村、左から3人目がウィッテ。大きな写真を見る >>
日露戦争」とは、1904年から翌年にかけて、日本とロシアが朝鮮・満洲(現在の中国東北部)の支配権をめぐって満洲南部を主戦場に戦った戦争のことです。

この戦争は長引き、日本は圧倒的な兵力を有するロシア軍に連勝はしていたものの、兵員数と弾薬の数は減るばかり。勝つほどに消耗していったのです。
一方、ロシアも戦争による疲弊と帝制の専横に苦しむ国民が革命を起こして混乱のさなかに。ともに戦争継続は困難になっていたものの、どちらかの優位が確定するでもなく、両者ともに引くに引けない膠着状態に陥っていました。
そこで、アメリカの仲介のもと、戦争終結のために日本・ロシアの代表同士が交渉を行ったのが「ポーツマス講和会議」です。

講和会議に日本の全権代表として赴いたのは外相の小村寿太郎。連戦連勝に沸く日本国民は、ロシアから多額の戦争賠償金や領土を得られると期待し、小村らを歓声で送り出します。しかし、『長期化すれば勝てる』という利があるロシアが、不利な要求を呑むはずがないと小村は悟っていました。予想通り、お互いの意見は食い違うばかり。交渉は困難を極めました。

一方、ロシア側の首席全権代表を務めたのはセルゲイ・ウィッテという、交通通信大臣や大蔵大臣を歴任した大物政治家。ウィッテはロシアを発つ際、ニコライ皇帝に「一銭の賠償金も一握の領土も譲渡するものであってはならぬ」と厳命されていました。

そこで、本会議とは別の場で非公式会議が行われ、いわば裏の交渉が重ねられました。これは、休戦議定書や講和条約の条項の内容など、細かな部分の詰めを行うためだったようです。

こうして17回にわたる本会議と非公式会議を経て、1905年9月5日、日本、ロシア両国が条約に調印。開戦から18ヶ月にわたった激しく苦しい戦争は終結しました。

ですが、小村にとってこの条約は多くの懸念材料を含むもので、その調印は苦渋の決断でした。危惧したとおり、条約内容をめぐって、日本国内では非難の声がわき上がり、小村は批判の矢面に立たされます。 戦争を終わらせ、日本に勝利と平和をもたらしたかに見えた条約に、なぜ国民は不満を唱えたのでしょうか?
ポーツマス講和会議の舞台裏では? >>
激務に次ぐ激務を重ね、なんとか講和条約を終えた小村に集中する不満の声。もともと病弱だった小村はこの条約交渉によりとんでもない事態に陥るのですが、それを示す資料もアジア歴史資料センターには収められています。
小村を苦しめた『ゴヲルブラッダァ』とは? >>
栄光の連合艦隊旗艦「三笠」 ロシア艦隊も屈した戦艦を沈没させたのは…?
日本とロシア、両国が消耗した熾烈な日露戦争。中でも勝負の分かれ目として語られたのが日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊との間で繰り広げられた日本海海戦です。

1905年5月27日〜28日、日本海において日本海軍連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が激突。司令官・東郷平八郎が採用した「丁字戦法」などにより、連合艦隊は「欧州最強」と称されたバルチック艦隊を圧倒しました。戦前の予想を覆す連合艦隊の一方的な圧勝に、列強諸国は驚愕。タイムズ紙など有力紙が「本当に日本が勝ち、ロシアが負けたのか?」と再確認のため発表を遅らせるほどでした。

この劇的な勝利は戦況を大きく変え、講和条約調印の大きなきっかけとなりました。その連合艦隊の旗艦が戦艦「三笠」です。排水量15,140トンを誇り、主砲は40口径12インチ砲4門。
当時は日本の同盟国だった、世界有数の軍艦建造技術を持つイギリスが、最新技術とノウハウを注ぎ込んだ三笠。文字通り当時の最新鋭の戦艦でした。

その連合艦隊の参謀として三笠に乗船していたのが秋山真之。『坂の上の雲』の主人公のひとりです。
先述の丁字戦法とは、敵艦の前方を、自艦隊が横切りながら一斉砲撃するもの。これも、真之が戦国時代の村上水軍の「野島流兵法書」を基に立案したものです(※諸説あり)。
しかし、丁字戦法でロシアの艦隊を翻弄した歴史的勝利の約3ヶ月後、三笠は爆発、炎上して沈没。ふたたび激しい海戦に参加したわけでも、敵艦に襲撃されたわけでもありません。果たして、三笠はなぜ爆発・沈没したのでしょうか。
三笠の栄光と爆発・炎上。その命運はこちら >>
1906年に引き揚げられた三笠。その後、現役復帰を経て、1922年には使命を終え解体されることに。やがて「日本海海戦で活躍した歴史的記念物なので保存すべき」として「三笠保存運動」が起こりました。
「三笠を残そう」の声が上がる。その結果は? >>
戦艦「三笠」とは
日本海軍がロシア海軍に対抗するため、イギリスに発注した「敷島型戦艦」の第4番艦として建造。日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、司令長官・東郷平八郎や参謀・秋山真之らが座乗した。全長131.7m、全幅23.2m、最大速度18ノット。
戦艦「三笠」
左/黄海海戦で破損した戦艦「三笠」の後部砲塔
右/日本海海戦で後部マストを破損した戦艦「三笠」
バルチック艦隊とは
帝政ロシアのバルト海配備の主要艦隊。日露戦争では旅順港に派遣され当時は世界最強と言われたが、1905年5月の日本海海戦で日本の連合艦隊によって潰滅させられた。
ロシア戦艦「ニコライ1世」
左/損傷したロシア戦艦「ニコライ1世」
右/降伏旗を掲げる同艦
秋山 真之 秋山 真之(さねゆき)
(1868〜1918)

日露戦争では司令長官・東郷平八郎のもと、連合艦隊の参謀として中心的な役割を果たした。日本海海戦の開戦前に発せられた有名な電文「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の起草者でもある。
好物は煎り豆で、考えごとをする時には、決まってポケットの中の煎り豆を取り出してはポリポリかじっていたらしい。
講和への戦略から捕虜を厚遇した日本 戦場では武士道精神がうかがえる話も
捕虜とは
戦争では、敵に捕らえられた将兵は捕虜(当時は「俘虜(ふりょ)」)となる。日露戦争では、最初に開設された愛媛県の松山をはじめ各地に捕虜収容所が設けられ、7万人を超えるロシア兵捕虜が収容された。終戦後、ロシアへ送還された。
ハーグ陸戦条約の条文
▲ハーグ陸戦条約の条文。この条約が「成るへく戦闘の惨苦を減殺すへき制限を設くるを目的として」締結された事がわかる(赤枠部分)
歓談する日本軍将校と捕虜のロシア軍将校
▲歓談する日本軍将校と捕虜のロシア軍将校。穏やかな雰囲気が写真からも伝わってくる
乃木 希典 乃木 希典
(1849〜1912)

陸軍大将。日露戦争で多くの犠牲者を出したことから切腹を申し出たが、明治天皇に「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん」と止められた。その言葉通り乃木は生き、明治天皇崩御の報せを聞いて後を追う。その殉死は日本国民に多大な衝撃を与え、「軍神」として崇められた。
一方、旅順攻略戦で手こずったことによって4万人を超える将兵を死なせた司令官として、否定的な評価も存在する。ちなみに、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で乃木を「愚将」と書いている。
戦争が続く中で、法的または倫理的な課題のひとつとして浮上したのが、捕虜をめぐる問題です。日露戦争において、日本は開戦5年前に締結した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守し、ロシア兵捕虜を厚遇しました。

<ロシア兵捕虜厚遇の一例>
・小中学生等への捕虜に接する心構えの教育
・運動会、芝居などの主催や見物と県外旅行
・温泉地や料理屋への出入り
・充分な医療の提供
他にもこんなことが… >>
愛媛県の松山俘虜(ふりょ=捕虜)収容所には、全国29ヵ所の中で最も多い延べ6,000人余りのロシア兵捕虜が収容されました。捕虜といっても外出自由であったほか、将校や妻帯者は一般家屋に住むことも許され、病気や負傷で亡くなった将兵のために立派な墓地も作られました。

また、愛媛県が県民に対し「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と何度も訓告を発していたといいます。捕虜の厚遇は、明治日本が国際法を守る「文明国」であることを西洋列強に知らしめ、国際世論を味方につけて有利な講和を達成しようという戦略のため、と言われています。

しかし、その一方では当時の日本人に「武士道精神」が色濃く残っていたことをうかがわせるエピソードも残っており、その一例が旅順攻略戦後の「水師営の会見」です。

各国の特派員が会見の様子を撮影する許可を求めたところ、司令官・乃木希典は「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を、一枚だけ許そう」と答え、ロシアの司令官・ステッセル以下に帯剣を許し、肩を並べて写真に収まりました。
敵将に敬意を払った写真はここに >>
外国人記者たちはこの配慮に感動し、彼らの発した電文と写真は世界各国に配信され、乃木の武士道精神は世界に知れ渡りました。

しかし、法を遵守し、捕虜を人道的に迎えて厚遇するという姿勢は、日露戦争以後、少しずつ薄れていったようです。
捕虜の扱いはどう変わった? >>
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